人生には目的があるのですね。私たちを造られた方の目的が

主よ、どうか私に教えてください。
終わりを迎えなければならないことを。
私の人生に目的があり、
私はそこから
去らなければならないことを。
詩篇39:5(独)

 

たとえ私たちの
地上の住まいである幕屋が壊れても、
私たちには天に、
神が下さる建物、
人の手によらない
永遠の住まいがあることを、
私たちは知っています。
Ⅱコリント5:1

 

 使徒8:26~39
 ロマ書15:22~33(通読箇所)
   (ローズンゲン『日々の聖句』4/22;土)

 

      ―――― α&ω  ――――

 

 私たちは、なんだか、いつまでも
この地上に生きていけるかのような感じで
生活しています。

しかし、すべての人は、この地上での生活に
終わりを迎えなければならないのですね。

 

私たちの人生には、私を造られた方の目的があり、
それが終わるとこの地上から去ることになるのですから。

 

天の神、【主】は、ご自身の家族として、
愛において、自由意思で自発的に、自分から進んで、
ご自身と思いを一つにしていくものをと願って、
私たちを造られたのだそうです。(創世記1:26)

 

私たちの祖先、アダムは、その神の願いである、
ご自身と思いを一つにしていく場に留まることをせず、
もっと素晴らしい者になろうとして、
「神の一人のようになり、善悪を知る者」になる道を選び、
造り主を無視し、
自分の理性による善悪の判断だけで生きていく者になり、
私たちもその性質を受け継いで生まれてきています。

 

天の神、【主】は、
その「的外れ」になってしまっている私たちを、
なお、惜しみ、大切に思ってくださって、
「的外れ」な者として滅びてしまうことを
悲しまれているのだそうです。

 

それで、私たち人間が、愛において、自由意思で自発的に、
ご自身と思いを一つにして生きる生き方に立ち返るよう、
救いの計画を立てられたのだそうです。

 

そして、その計画の時が満ちて、
【父である神】は、預言のことばのとおりに
【独り子である方】を人間イエスとして
地上に遣わされました。

 

そして、この方がおよそ33歳のころ、
私たちすべての人間の身代わりとし、
神に呪われた者として、
十字架刑で処刑してくださいました。

 

神の創造の目的から「的外れ」になっている
すべての人の〔生まれたときからの私〕という霊を、
この、イエスの十字架刑での死に合体させて、
処刑が終了しているもの、死んだ者としてくださるために。

 

そして、【父である神】は、
このことが完成している証拠として、
死んで、墓に納められたイエスを、
三日目の日曜日の早朝、
死人の中から、新しい霊のからだに復活させ、
40日にわたって何度も弟子たちに現れさせ、
エスが確かに生きていることを見せたのち、
オリーブ山で弟子たちが見守る中、上げられ、
天の、ご自身の右の座の位に復帰させられました。

 

そのうえで、このイエスを通して、
受け入れる者に、もう一人の助け主、
【聖である霊】と呼ばれる方をお遣わしくださり、
この方によって私たちの心に
ご自身の思いを置き、書き記して、
私たちのうちにご自身の思いがあるようにし、
受け入れる者が
ご自身と思いを一つにして生きることができるように
してくださいました。
エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28、ヨハネ17::21~23)
 

エスがそうであったように、私たちをこの地上の世界で、
ご自身がしようと思うことをしていく者に、と。

ピリポを用いられたように。

 

あの時、主の使いがピリポに言ったのですね。
「立って南へ行き、
エルサレムからガザに下る道に出なさい。」
そこは荒野である。
そこで、ピリポは立って出かけた。

 

すると見よ。そこに、
エチオピア人の女王カンダケの高官で、
女王の全財産を管理している宦官(かんがん)
エチオピア人がいた。
彼は礼拝のためエルサレムに上り、帰る途中であった。

 

彼は馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた。
御霊(みたま)がピリポに
「近寄って、あの馬車と一緒に行きなさい」と言われた。
そこでピリポが走って行くと、
預言者イザヤの書を読んでいるのが聞こえたので、
「あなたは、読んでいることが分かりますか」と言った。
するとその人は、
「導いてくれる人がいなければ、どうして分かるでしょうか」
と答えた。

 

そして、馬車に乗って一緒に座るよう、ピリポに頼んだ。
彼が読んでいた聖書の個所には、こうあった。

「屠り場に引かれて行く羊のように、
毛を刈る者の前で黙っている子羊のように、
彼は口を開かない。
彼は卑しめられ、さばきは行われなかった。
彼の時代のことを、だれが語れるだろう。
彼のいのちは地上から取り去られたのである。」


宦官はピリポに向かって言った。
「お尋ねしますが、
預言者はだれについてこう言っているのですか。
自分についてですか。
それとも、だれかほかの人についてですか。」

ピリポは口を開き、この聖書の箇所から始めて、
エスの福音を彼に伝えた。


道を進んでいくうちに水のある場所に来たので、
宦官は言った。
「見てください。水があります。
私がバプテスマを受けるのに、
何の妨げがあるでしょうか。」
そして、馬車を止めるように命じた。
ピリポと宦官は二人とも水の中に降りて行き、
ピリポは宦官にパプテスマを授けた。
 

二人が水から上がって来たとき、
主の霊がピリポを連れ去られた。
宦官はもはやピリポを見ることはできなかったが、
喜びながら帰って行った。(使徒8:26~39)

 

 

そして、私の分の役割が完了したとき、
【父である神】は、私たちを
天のパラダイスに引き上げてくださるのですね。
いつまでも、イエスととともにいるように、と。
新しい「建物」、「住まい」と言われている「からだ」、
復活されたイエスと同じ霊の「からだ」を着せてくださって。

 

 

 パウロの、ローマにいる、
神と思いを一つにして生きている人たちに宛てた手紙は
続きます。
 

そういうわけで、私は、
あなたがたのところに行くのを何度も妨げられてきました。
しかし今は、もう
この地方に私が働くべき場所はありません。

また、イスパニアに行く場合は、
あなたがたのところに立ち寄ることを
長年切望して来たので、旅の途中であなたがたを訪問し、
しばらくの間あなたがたともにいて、
まず心を満たされてから、あなたがたに送られて
イスパニアに行きたいと願っています。

 

しかし今は、聖徒たちに奉仕するために、
私はエルサレムに行きます。
それは、マケドニアとアカイアの人々が、
エルサレムの聖徒たちの中の貧しい人たちのために、
喜んで援助することにしたからです。

 

彼らは喜んでそうすることにしたのですが、
聖徒たちに対してそうする義務もあります。
異邦人は彼らの霊的なものにあずかったのですから、
物質的なもので彼らに奉仕すべきです。

 

それで私はこのことを済ませ、
彼らにこの実を確かに渡してから、
あなたがたのところを通ってイスパニアに行くことにします。

 

あなたがたのところに行くときは、
キリストの祝福に満ちあふれて
行くことになると分かっています。

 

兄弟たち、私たちの主イエス・キリストによって、
また、御霊の愛によってお願いします。
私のために、私とともに力を尽くして、神に祈ってください。
私がユダヤにいる不信仰な人々から救い出され、
エルサレムに対する私の奉仕が
聖徒たちに受け入れられるように、
 

また、神のみこころにより、
喜びをもってあなたがたのところに行き、
あなたがたとともに、憩いを得ることができるように、
祈ってください。

どうか、平和の神が、
あなたがたすべてとともにいてくださいますように。
アーメン。(ロマ15:22~33)

 

 

 私たち、ピリポやパウロのような
大きな働きではないとしても、
【父である神】は、私たち、それぞれに、
その人でないと埋まらない場所、役割を与えて、
用いようとしていてくださるのですね。
役目が終われば、地上を去って天の御国で、
新しい「からだ」を着せてくださって。
いつまでも一緒にいようと。

 

だから、その地上を去る日を見据えながら、
エスを通して来てくださる【
聖である霊】と呼ばれる方が心に置いてくださる
【父である神】の御思いに心を合わせて。

今日も。

 

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