神と富、どちらを主人とするか

主を愛する者たちよ、
悪を憎め。
詩篇97:10

あなたがたは
神と富とに仕えることはできない。
マタイ6:24

 ルカ22:14~20
 マタイ7:24~29(通読箇所)
    (ローズンゲン『日々の聖句』7/28;金)

   ―――― α&ω  ――――

 聖書が啓示している神、天の神、【主】、
「『わたしはある(I am)』という者」と
名乗られる方(出エジプト3:14)。

この方を愛する者、
この方の御思いが成ることを願う者は、
悪、この方と対立、対抗して、
自分の善悪の判断をこの方の善悪の判断よりも優先する
生き方を憎むのですね。

なぜなら、それが、すべての悪の根源なのですから。
 

 ですからイエスは言われます。
「だれも二人の主人に仕えることはできません。
一方を憎んで他方を愛することになるか、
一方を重んじて他方を軽んじることになります。
あなたがたは神と富とに仕えることはできません」と。

 

 

 イエスが十字架刑での処刑を受けられたのは、
過越しの祭りのときなのですね。

そして、過ぎ越しの祭りで、大祭司がエルサレム神殿
羊を屠(ほふ)るその時刻にイエスは息を引き取られて。

 


過越しの祭りは、
昔、モーセの時代(紀元前1500年頃)、
エジプトで奴隷であったイスラエルの民が
エジプトを脱出しようとする時、
これを阻止するエジプトの王ファラオは、
神がモーセを通して九つの災害をもってエジプトを打っても、
なお、心を頑(かたく)なにし、
イスラエルの民を去らせようとはしませんでした。

 

そして、モーセに、
「私のところから出て行け。
私の顔を二度と見ないように気をつけろ。
おまえが私の顔を見たら、
その日、おまえは死ななければならない」と
最後通告を言い渡しました。

 

それで神である【主】は、エジプト中の長子、
王の長子から奴隷の長子、家畜の初子に至るまでを
打たれ、死ぬことを言い渡されました。

 

そして神は命じて言われました。
「その月(旧暦)の10日に、
家族ごとに、傷のない一歳の羊を取り分け、
14日まで、それをよく見守り、
14日の夕暮れにそれを屠(ほふ)る。
そして、その血を取り、羊を食べる家々の
二本の門柱と鴨居に塗らなければならない。

 

そして、その夜、その肉を食べる。
それを火で焼いて、
種なしパンと苦菜を添えて食べなければならない。

 

その夜、わたしはエジプトの地を行き巡り、
人から家畜に至るまで、
エジプトの地のすべての長子を打ち、
また、エジプトのすべての神々にさばきを下す。
わたしは主である。
 

その血は、あなたがたのいる家の上で、
あなたがたのためにしるしとなる。
わたしはその血を見て、あなたのところを過ぎこす。
わたしがエジプトの地を打つとき、
滅ぼす者のわざわいは、
あなたがたに起こることはない。」(出エジプト10 :27~ 12: 13)

 

 

 神は、イスラエルの民に、
この出エジプトの出来事を記念して、
毎年、過越しの祭りを行うよう命じられました。
エスご在世当時、
家々で羊を屠ることはなかったのでしょうが、
その代表として、夕暮れ(午後3時頃)、
エルサレム神殿で、大祭司が羊を屠り、
それが完了するとラッパが吹き鳴らされたそうです。

 

 イエスは、この過越しの食事を
一日前に行われたようです。

 

ルカは記します。

その時刻が来て、イエスは席に着かれ、
使徒たちも一緒に座った。
エスは彼らに言われた。
「わたしは、苦しみを受ける前に、
あなたがたと一緒にこの過越しの食事をすることを、
切に願っていました。

 

あなたがたに言います。
過越しが神の国において成就するまで、
わたしが過越しの食事をすることは、決してありません。」

 

そしてイエスは杯を取り、
感謝の祈りをささげてから言われた。
「これを取り、互いの間で分けて飲みなさい。
あなたがたに言います。
今から神の国が来るときまで、
わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは
決してありません。」

 

それからパンを取り、
感謝の祈りをささげた後これを裂き、
弟子たちに与えて言われた。
「これは、あなたがたのために与えられる、
わたしのからだです。
わたしを覚えて、これを行いなさい。」

 

食事の後、杯も同じようにして言われた。
「この杯は、あなたがたのために流される、
わたしの血による、新しい契約です。」(ルカ22:14~20)

 

 

 このようにして、エレミヤ書に記され、
エゼキエル書に記されている
「新しい契約」が始まったのですね。

 

(エレミヤ31~34)
「見よ、その時代が来る——【主】のことば——。
そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、
新しい契約を結ぶ。
その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、
エジプトの地から導き出した日に、
彼らと結んだ契約のようではない。
わたしは彼らの主であったのに、
彼らは私の契約を破った——【主】のことば——。

 

これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約は
こうである——【主】のことば——。
わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、
彼らの心にこれを書き記す。
わたしは彼らの神となり、彼らは私の民となる。
彼らはもはや、それぞれ隣人に、
あるいはそれぞれ兄弟に、
「【主】を知れ」と言って教えることはない。
彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、
わたしを知るようになるからだ。——【主】のことば——。
わたしは彼らの不義を赦し、
もはや彼らの罪(「的外れ」)を
思い起こさないからだ。」

 

 

「わたしが
きよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、
あなたがたはすべての汚(けが)れからきよくなる。
あなたがたに新しい心を与え、
あなたがたのうちに新しい霊を与える。
わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、
あなたがたに肉の心を与える。
わたしの霊をあなたがたのうちに授けて、
わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを
守り行うようにする。」(エゼキエル36:25~27)

 

 

 イエスは言われます。
「ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、
それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた
賢い人にたとえることができます。
雨が降って洪水が押し寄せ、
風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。
岩の上に土台が据えられていたからです。

 

また、わたしのこれらのことばを聞いて、
それを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた
愚かな人にたとえることができます。
雨が降って洪水が押し寄せ、
風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。
しかもその倒れ方はひどいものでした。」

 

エスがこれらのことばを語り終えられると、
群衆はその教えに驚いた。
エスが、彼らの律法学者たちのようにではなく、
権威ある者として教えられたからである。(マタイ7:24~29)

 

 

 イエスのことばを聞いてそのとおりを、
自分の力でやっていこうとする生き方は、
シナイ山以来の「古い契約」の生き方であり、
神を愛し、神と思いを一つにしていく生き方ではなく、
神の向こうを張って
自分の誇り、自分の誉れを求めていく生き方。
 

「神の一人のようになり、善悪を知る者」になっている
〔生まれたときからの私〕の善悪の判断を土台として
人生という家を建てている人、ということなのでしょうね。 

 

この〔生まれたときからの私〕という私の霊から出て来た
善悪の判断は、
エスの十字架刑での処刑に合わせていただいて
「死んだ者」から出て来た思いであることを認めて、
エスの前に差し出しながら、
エスを通して来てくださる
「わたしの霊」と言われる【聖である霊】と呼ばれる方が
心に置いてくださる【父である神】の思いによって生きる
「新しい契約」の生き方が、
「神の御思い」という岩盤を土台として
人生という家を建てる生き方なのでしょうね。

私たちも、この方を待ち望んで。

今日も。

 

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