「あなたは私のもの」と言われる方に信頼して

だが今、主はこう言われる。
ヤコブよ、あなたを創造した方、
イスラエルよ、あなたを形作った方が。
「恐れるな。
わたしがあなたを贖ったからだ。
わたしはあなたの名を呼んだ。
あなたはわたしのもの。」
イザヤ書43:1
        (7/16の週の聖句)

 

わたしが、
戒めの多くをさらに加えて書けば、
彼らは関わりのない教えのように
やり過ごす。
ホセア書8:12(独)

 

(イエスの言葉)
そこでわたしのこれらの言葉を聞いて
行う者は皆、
岩の上に自分の家を建てた
賢い人に似ている。
マタイ7:24

 

 出エジプト記14:15~22
 マタイ5:33~37(通読箇所)
   (ローズンゲン『日々の聖句』7/17;月)

 

    ―――― α&ω  ――――

 

 聖書が啓示している神、天の神、【主】、
「『わたしはある(I am)』という者」と
名乗られる方(出エジプト3:14)が、こう言われるのですね。
「恐れる必要はない」、「恐れていても大丈夫だ」と。
 

「わたしはあなたを創造した者、
そのわたしが、あなたを
わたしの独り子を人間イエスとして派遣し、
そのイエスのいのちを支払っておまえを贖(あがな)った、
買い戻し、わたしのものにしているのだから、と。

 

私たちは、この神によって、
ご自身と思いを一つにしながら生きる者に、
と造られていながら、
もっと素晴らしい者になろうとして、
「神の一人のようになり、善悪を知る者」になっています、

 

それで、この方のことばを聞いても、
自分には関わりのないことばとして無視し、
やり過ごしてしまいます。

 

しかし、天の神、【主】は、イエスの十字架刑での死と、
死人の中から新しい霊のからだに復活し、
天の、【父である神】の右の座に復帰されたイエスを通して
来てくださる【聖である霊】と呼ばれる方によって、
その自分の思い、
〔生まれたときからの私〕という霊から出て来る
思いでななく、
この神の約束のことばに表された【父である神】の御思いで
生きる者にしてくださるのですね。
砂地の上にではなく、
岩盤を土台にして家を建てる人のように。

 

 

 エジプトの王ファラオは、
モーセが予告したとおりに、
王の子から奴隷の子、家畜に至るまで、
一夜のうちに長子が死んでしまうという
恐怖の出来事にあって、
モーセの希望のとおり、
イスラエルの民をエジプトから去らせました。

 

しかし、後になって、国家の膨大な損失を思い、
戦車隊を率いてイスラエルを追いかけました。
その戦車隊を遠くに見て、イスラエルの人々は
恐怖に襲われたのですね。

 

モーセは民に言いました。
「恐れてはならない。
しっかり立って、今日あなたがたのために行われる
【主】の救いを見なさい。
【主】があなたがたのために戦われるのだ。
あなたがたは、ただ黙っていなさい。」

 

そして、モーセが、神の言われた通りに
杖あげ、手を海の上に伸ばすと、
神は一晩中強い東風で海を押し戻し、
イスラエルの民は、
乾いた地を向こう岸へ進んだのですね。(創世記14:15~22)

 

 

 イエスは言われます。

「また、昔の人々に対して、
『誓ってはならない。
あなたの誓ったことは主に果たせ』と言われていたのを、
あなたがたは聞いています。

 

しかし、わたしはあなたがたに言います。
決して誓ってはいけません。
天にかけて誓ってはいけません。
そこは神の御座だからです。
地にかけて誓ってもいけません。
そこは神の足台だからです。
エルサレムにかけて誓ってもいけません。
そこは偉大な王の都だからです。
自分の頭にかけて誓ってもいけません。
あなたは髪の毛一本さえ白くも黒くもできないのですから。

あるなたがたの言うことばは、
「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」としなさい。
それ以上のことは悪い者から出ているのです。」(マタイ5:33~37)

 

 

 イエス当時のユダヤの人たちは、よく、
自分の主張が正しいことを何かにかけて誓うことで
相手に認めさせようとしていたようですね。
私たちも、自分の潔白の証明として
「神にかけて誓って」という表現をすることがあります。

しかし、イエスは言われるのですね。
「はい」は「はい」、
「いいえ」、「いいえ」とだけ言いなさい、と。
事実を事実のままに伝えて、
それ以上自分を押し通そうとしないで、
後は、神におまかせしなしなさい、ということですしょうか。
 

気持ちや考えも、「こう思っています」と、
「善し悪し」の判断を差しはさまないで、
事実だけを伝えるように、と。

 

「神の一人のようになり、
善悪を知る者」になっている(創世記3:22)わたしたちは、
「自分の善悪の判断が一番いい、一番正しい。
だから、みんなは私の判断に従え」
と思う傾向を持っている者なのですね。
 

その、「的はすれ」になっている
〔生まれたときからの私〕から出て来る思いは、
エスの十字架刑で死んだものと認めて、
エスの御前に差し出し、投げ捨てながら、
エスを通して来てくださる
【聖である霊】と呼ばれる方によって心に来る、
【父である神】の御思いについて行くのですね。
日常の一つひとつのことを。
心に来た思いのとおりに一歩踏みだしてみて。

今日も。

 

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