私たちを見捨てたり、見離したりしないこの方に、心をまっすぐに向けて

私たちの神、主。
私たちを見捨てないでください。
私たちを見離さないでください。
列王記上8:57

主があなたがたの心を、
神の愛とキリストの忍耐へとまっすぐに
向けてくださいますように。
Ⅱテサロニケ3:5

 

 ヨブ記2:1~10
 ロマ書7:14~25(通読箇所)
   (ローズンゲン『日々の聖句』3/7;火)

 

   ―――― ☆  ――――

 

 ソロモン王は、
エルサレム神殿を完成し、契約の箱を運び入れたとき、
民を祝福し、
天の神、【主】、
「『わたしはある(I am)』という者」と
名乗られる方(出エジプト3:14)方に向かって、
このように願ったのですね。

 

そのように、
エスを通して私たちに来てくださる
【聖である霊】と呼ばれる方は私たちの心に、
神の愛とキリストの忍耐に真っ直ぐに心を向ける思いを
起こしてくださるのですから。

 

サタンは、私たちに困難な出来事を起こして、
私たちが神に背を向けるようにさせようとするのですが。(ヨブ2:1~10)

 

 

 使徒パウロは書き送っています。
私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。
しかし、私は肉的なものであり、
売り渡されて罪(的外れ)の下にある者です。
 

私には、自分のしていることが分かりません。
自分がしたいと願うことはせずに、
むしろ自分が憎んでいることを行っているからです。

自分のしたくないことを行っているなら、
私は律法に同意し、
それを良いものと認めていることになります。
 

ですから、今それを行っているのは、もはや私ではなく、
私のうちに住んでいる罪なのです。

私は、自分のうちに、
すなわち、自分の肉のうちに
善が住んでいないことを知っています。
私には良いことをしたいという願いがいつもあるのに、
実行できないからです。
私は、したいと願う善は行わないで、したくない悪を行っています。
私が自分でしたくないことをしているなら、
それを行っているのは、もはや私ではなく、
私のうちに住んでいる罪です。

 

そういうわけで、善を行いたいと願っているその私に
悪が存在するという原理を、私は見出します。
 

私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいますが、
私のからだには異なる律法があって、
それが私の心の律法に対して戦いを挑(いど)み、
私を、からだにある罪の律法のうちに
とりこにしていることが分かるのです。

 

私は本当にみじめな人間です。
だれがこの死のからだから、
私を救い出してくれるのでしょうか。

 

私たちの主イエス・キリストを通して、
神に感謝します。

 

こうして、この私は、心では神の律法に仕え、
肉(生まれたときからの私自身)では
罪の律法に仕えているのです。(ロマ7:14~25)

 

 

 パウロが、ここで、
悩みの中にありながら感謝しているように、
【父である神】は、
人間イエスとなられた【御子である神】が受けられた
十字架刑での死によって、
私たちの、この肉、〔生まれたときからの私〕という私自身を
死刑が終っているものとしてくださっているのですから。

 

そのうえで、【聖である霊】と呼ばれる方が、
私たちに来てくださって、
私たちの心に【父である神】の御思いを置き、書き記して、
私たちのうちに【父である神】の御思いがあるようにし、
私たちがこの、心に来た
【父である神】の御思いによって生きるように
してくださるのですから。

 

神に心をまっすぐに向ける者にと。

今日も。

 

       ~~~~~~~~~~~~~~

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