生きるのも主のため、死ぬのも主のために

私たちは皆、キリストの裁きの座の前に
出なければならない。
Ⅱコリント5:10a(11/14の週の聖句)
 

あなたの声を挙げよ、
ラッパのように、わたしの民に、
彼らの背きを告げよ。
イザヤ書58:1

今では神を知っているのに、
いや、むしろ神に知られているのに、
どうして弱く貧弱な、もろもろの霊に
逆戻りして、もう一度改めて
奴隷になりたいと願うのですか。
ガラテヤ書4:9

 ロマ書14:(1~6)7~13
 詩6(通読箇所)
    (ローズンゲン『日々の聖句』11/14;Ⅱ日曜) 

 

     ―――― ☆  ――――


 私たちは皆、善であれ悪であれ、
それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、
キリストの裁きの座の前に現れることになるのだそうです。

それで、神である主は言われるのですね。
「ラッパのように声を挙げて、背きを告げ知らせてほしい」と。


 私たちはかつて、この神を知らず、
本来、神でない、人間が考え出した神々の奴隷でした。

しかし、今はその神を知っており、神に知られているのに、
弱くて貧弱なもろもろの霊に逆戻りして、
もう一度、改めて
その奴隷になろうとするのかと言われるのですね。

 

エスによって神のものとされた私たちは、
生きるのも神である主のために生き、
死ぬのも神である主のために死ぬのですね。

自分のために生きるのではなく、
自分のために死ぬのでもなく。
エスは、死んでよみがえられて、
死んだ人にも、生きている人にも、主となられたのですから。

私たちはそれぞれ自分について、
神の前に申し開きをすることになります。

だから、私たちはもう互いにさばき合わないようにし、
むしろ、兄弟に対して妨げになるもの、
つまずきになるものを置かないようにしましょう、と。

 


 私たちも、自分が神に背き、神の創造の目的から
「的外れ」になっている自分の実態を認め、
その、〔生まれたときからの私〕という霊をイエスによって
死んだものとしていただけるのですね。

エスは、死んで墓に納められ、
三日目、日曜日の早朝、
死人の中から、新しい霊のからだに復活され、
天の、【父である神】の右の座に帰られました。

そして、約束のとおりに、もう一人の助け主、
【聖である霊】と呼ばれる方を私たちに
派遣してくださるのだそうです。

この方は、私たちに来て、私たちの心に
【父である神】の御思いを置いてくださいます。

それで、私たちのうちに
【父である神】の御思いがあるようになり、
私たちが【父である神】と思いを一つにして生きるように
していただけるのですね。

キリストのものとして、生きるのも主のために生き、
死ぬのも主のために死ぬのですから。

この新しい週も。

 

 

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