私が生きるのではなく、イエスが、私のうちに生きて

私は死ぬことなく、生き長らえて、
主の御業を語り伝えよう。
詩118:17

生きているのは、
もはや私ではありません。
キリストが私のうちに
生きておられるのです
ガラテヤ書2:20

 ロマ書6:18~23
 ヘブル書4:1~ 13(通読箇所>)
   (ローズンゲン『日々の聖句』9/20;月・祝)

 

  ―――― ☆  ――—―


  詩人はうたいます。
「天の神、【主】は私を厳しく懲らしめられた。 

しかし、私を死には渡されなかった。
私は死ぬことなく、生き長らえて
【主】のみわざを語り告げよう。」

 【父である神】は、私たちを
エスの十字架刑での死に合わせて、
エスとともに十字架につけられたもの、
処刑され、死んだものとしてくださるのだそうです。
もはや私が生きているのではなく、
エスが私のうちに生きておられるようにするために。


私が、私の
〔生まれたときからの私〕という霊から出てくる思いで
生きていたときには、明るみに出されると
恥ずかしくなるような生き方をしていました。
そして、その行きつく先は死でした。

しかし、今は、その〔生まれたときからの私〕という霊は、
エスとともに死んだものとしていただいているので、
罪、「的外れ」な生き方から解放されて、
エスを通して来てくださる【聖である霊】と呼ばれる方が
心に置いてくださる
【父である神】の御思いによって生きるようにされ、
聖潔に至る実を結ぶ者にしていただいています。
その行きつくところは永遠のいのちです。

罪、「的外れ」の生き方の結果は死です。
しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある
永遠のいのちなのですから。(ロマ6:18~23) 

 


 この永遠のいのち、神の安息の休みに入る約束は、
まだ残っているのだそうです。
だから、イエスによるこの良い知らせについて、
「今日、もし御声を聞くなら、
あなたがたの心を

かたくなにしてはならない」と
言われているのですね。
だれも、入ることができなかったという人がないようにと。


神のことばは生きていて、力があり、
両刃の剣よりも鋭く、
たましいと霊、関節と骨髄分けるまでに刺し貫き、
こころの思いやはかりごとを
見分けることができるのだそうですから。

神の御前にあらわでない被造物はありません。
神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されています。
この良い知らせに対してどう応えたか、私たちは
申し開きをすることになるのだそうですから。(ヘブル4:1~13)


この、イエスによる良い知らせを受け取って、
【聖である霊】と呼ばれる方をお迎えし、
【父である神】の御思いを心に置いていただき、
その御思いで生きる、
キリストがうちにあって生きてくださる、
その新しい生き方へと。

今日も。

 

 

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