復活し、死に勝利された方が、私たちの避難場所となっていてくださって

主はあなたの避けどころ。詩篇91:9(独)

 

キリストの苦難が
私たちの上におびただしく及ぶように、
私たちはキリストにより
豊かに慰められるでしょう。
Ⅱコリント1:5(独)

 

 ヨハネ20:1~10
 ロマ書12:1~8(通読箇所) 

   (ローズンゲン『日々の聖句』4/11;火)

 

      ―――― α&ω  ――――

 

 聖書が啓示している神、
天の神、【主】、
「『わたしはある(I am)』という者」と
名乗られる方(出エジプト3:14)が、
私たちの避けどころ、住まいとなっていてくださるのですね。
どのような苦しみのときも、豊かな慰めで慰めてくださって。

 

 

 この方、イエスは、
私たちすべての人間の身代わりとなり、
私たちすべての人間の、
神の創造の目的からの「的外れ」の責任を
御自身の身に負って、神に呪われた者となって
十字架刑での死刑を受けてくださいました。

 

それで、死んだイエスのからだを、
アリマタヤのヨセフが引き取り、近くにあった、
自分のために掘っておいた新しい墓に納めました。

それは、金曜日のことだったのですが、
それから三日目、日曜日の出来事を
ヨハネは次のように記しています。

 

 さて、週の初めの日、朝早くまだ暗いうちに、
マグダラのマリアが墓にやって来て、
墓から(墓の蓋の)石が取り除けられているのを見た。

それで、走って、シモン・ペテロと、
エスが愛されていたもう一人の弟子のところに行って、
こう言った。
「だれかが墓から主を取っていきました。
どこに主を置いたか、私たちには分かりません。」
 

そこで、ペテロともう一人の弟子は外に出て、墓へ行った。
二人は一緒に走ったが、
もう一人の弟子がペテロよりも速かったので、
先に墓に着いた。

 

そして、身をかがめると、
亜麻布が置いてあるのが見えが、中には入らなかった。
彼に続いてシモン・ペテロも来て、墓に入り、
亜麻布が置いてあるのを見た。
エスの頭を包んでいた布は、亜麻布とは一緒にはなく、
離れたところに丸めてあった。

 

そのとき、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来た。
そして見て、信じた。

彼らは、イエス
死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、
まだ理解していなかった。
それで、弟子たちは
再び自分たちのところに帰って行った。(ヨハネ20:1~10)

 

 

 このように、ペテロやヨハネにとっても、
死んだイエスが復活するということは、
考えられない、思いつきもしないことだったようです。

 

しかし聖書は、確かにイエスは復活して、
40日にわたって、弟子たちに何度も現れ、
神の国のことを語り、
ご自身が生きていることを見せたのち、
オリーブ山で弟子たちが見守る中、上げられ、
天の、【父である神】の右の座に復帰されたと伝えています。

 

 

 それから10日後のペンテコステ(五旬節、
イスラエルの民にシナイ山モーセを通し、
律法が与えられ、契約が結ばれた記念日)の日、
エルサレムで、集まっていた120人ほどの弟子たちに、
約束の【聖である霊】と呼ばれる方が来られ、
弟子たちは、この方が心に置いてくださる
御思いのとおりを語り、
行動するようになったのだそうです。(使徒2:1~12)

 

エゼキエルを通して
「わたしの霊をあなたがたのうちに授けて、
わたしの掟に従って歩み、
わたしの定めを守り行うようにする。
あなたがたはわたしの民となり、
わたしはあなたがたの神となる」(エゼキエル36:26~28)との
約束の預言のとおりに。

 

 

 私たちは、イエスの十字架刑での死によって、
神の創造の目的から「的外れ」になっている
私自身である〔生まれたときからの私〕という霊を、
死刑が終わっているもの、
死んだものとしていただけるのですね。

 

そして、【父である神】が「わたしの霊」と呼ばれる
【聖である霊】と呼ばれる方をお迎えします。

 

この方は【父である神】の御思いを私たちの心に置き、
書き記してくださり、
私たちを、【父である神】の御思いのとおりを生きる者に
してくださいます。

 

 それで、パウロが言うように、私たちは、
神のあわれみによって、自分のからだを、
神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として
献げるようにしていただけるのですね。

それこそが、私たちにふさわしい礼拝なのですから。

 

この世と調子を合わせることはせず、
むしろ、心を新たにすることで、
自分を変えていただくのですね。

 

神のみこころは何か、
すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、
完全であるのかを見分けるようにしていただいて。

 

思うべき限度を超えて思い上がるのではなく、
むしろ、神が各自に分け与えてくださった
信仰の量(はか)りに応じて、
慎み深く考えるようにもしていただいて。

 

一つのからだには、多くの器官があり、
しかも、すべての器官が同じ働きをしていないように、
大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、
一人ひとりは互いに器官なのですから。

 

それぞれが、自分に与えられた恵みに従って、
聖なる賜物を持っているので、
それが預言であれば、その信仰に応じて預言し、
奉仕であれば奉仕し、
教える人であれば教え、勧める人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、
指導する人は熱心に指導し、
慈善を行う人は
喜んでそれを行うようにしていただいて。(ロマ12:1~8)

 

そのような、
エスによって来てくださる
【聖である霊】と呼ばれる方の働きの中へと。

今日も。

 

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