望みにより、大胆に

わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。
何ゆえ私のうちに思いみだれるのか。
神を待ち望め。
私は神が
わが助け、わが神であられることに、
なおも感謝を捧げよう。
詩篇42:12

 

このような望みを抱いているので、
私たちは
きわめて大胆にふるまいます。
Ⅱコリント3:12

 

 マタイ2:13~18
 マタイ3:13~17(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句12/28;水)

 

    ―――― ☆  ――――

 

 敵対する者たちは、骨を砕くほどに私たちをそしり、
絶えず私たちに言います。
「おまえの神はどこにいるのか」と。

それで、私たちのたましいはうなだれ、思い乱れます。
 

けれども私たちは言います。
「神を待ち望め。
私はなおも神をほめたたえる。
私の救い、私の神を」と。

 

このように、神に望みを抱いているので、
私たちはきわめて大胆に行動するのですね。

 

【父である神】は私たちに、
エスを通して来てくださる
【聖である霊】と呼ばれる方によって、
【父である神】の御思いを心に置いてくださり、
【父である神】の御思いがうちにあるようにして、
【父である神】と思いを共有しながら生きる、
新しい契約で生きるようにしていてくださるのですから。

 

石の上に刻まれた文字に仕えるのではなく、
人に、新しい生き方を生きさせてくださる
【聖である霊】と呼ばれる方に仕える者に
してくださって。

 

そして、この方のおられるところには
自由があるのですから。(Ⅱコリント3:6~7)

 

 

 このイエスについて、マタイは書いています。

そのころ、イエスガリラヤから
ヨルダン川ヨハネのもとに来られた。
彼からバプテスマを受けるためであった。
しかし、ヨハネはそうさせまいとして言った。
「私こそ、あなたからバプテスマを受ける必要があるのに、
あなたが私のところにおいでになったのですか。

しかし、イエスは答えられた。
「今はそうさせてほしい。
このように正しいことをすべて実現することが、
わたしたちにふさわしいのです。」

そこでヨハネは言われたとおりにした。

 

エスバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。
すると見よ、天が開け、神の御霊が鳩のように
ご自分の上に降(くだ)って来られるのをご覧になった。

そして、見よ、天から声があり、こう告げた。
「これはわたしの愛する子。
わたしはこれを喜ぶ。」(マタイ3:13~17)

 

 

こうしてイエスは、キリストとしての公生涯に入られました。
私たちも、うなだれ、思い乱れるときも、
神の励まし、神から来る望みによって
自由に、大胆にふるまうようにしていただけるのですから。

今日も。