すべての人の罪を背負い殺される小羊として

主の僕は言った:
打とうとする者には背中を差し出し、
ひげを抜こうとする者には
(ほほ)を差し出した。
(はずかし)めとつばきから
私は顔を隠さなかった。
イザヤ書50:6
 

見よ、これが
世の罪を担う神の小羊です。
ヨハネ1:29
 

 フィリピ書2:(13)14~18
 ヨハネ10:31~42(通読箇所)
   (ローズンゲン『日々の聖句』8/13;土)

 

    ―――― ☆  ――――

 

 天の神、【主】から遣わされた方は、
逆らわず、うしろに退きもせず、
打つ者に背中を差し出してまかせ、
ひげを抜く者に頬(ほほ)を任せ、
侮辱されても、唾(つば)をかけられても顔を隠すことなく、
はずかしめを受けてくださったのですね。

 

この世の罪、
私たちの創造の目的からの「的外れ」の責任を
一身に負ってくださって。

 

 

この方、イエスが受けてくださった
十字架刑での処刑による死によって、
私たちも、この「的外れ」になっている
〔生まれたときからの私〕という霊を
死んだものと手続きしていただいた者は、
エスを通して来てくださる
【聖である霊】と呼ばれる方によって、
心に、このイエスの性質を置いていただくのですね。

 

「自分の思いを行うのではなく、
遣わされた方の御思いを行おう」と
【父である神】と思いを一つにしておられるイエスの思いが
私の心にあるようにしていただいて。

 


私たちがこのようになるために、
【神の御子】である方が人間イエスとして
私たち人間の世界に来られ、
およそ、33歳の頃、十字架刑での処刑を受けられ、
死んで墓に納められ、
三日目、日曜日の早朝、
死人の中から新しい霊のからだに復活され、
40日に渡って何度も弟子たちに現れ、神の国のことを語り、
ご自分が確かに生きていることを見せたのち、
オリーブ山で弟子たちが見守る中、上げられ、
天の、【父である神】の右の座に帰られたのですから。

 

その地位にあって、私たちに、
【聖である霊】と呼ばれる方を遣わし、
この方によって私たちの心に
【父である神】の御思いを置き、書き記して、
私たちのうちに神の御思いがあるようにし、
私たちが【父である神】と思いを一つにして生きるように
なってほしいと。

 

 

そのようになると、神の御思いが私たちの心の中で、
私の願いとなり、志(こころざし)となって、
事を行わせてくださるのですから。

不平や疑いの思い、義務感の中ででなく、
平安と喜びの中で。

 

神は私たちを、非難されるところのない純粋な者とし、
曲がった邪悪な世代のただ中にあって、
傷のない、完全な、神の子どもとしてくださり、
いのちのことばをしっかり握り、
世の人の間で世の光として輝かせようと。
 

やがて、滅んでしまう無駄な人生ではなく、
神の御前に出たとき、
「忠実な良いしもべだ。
おまえを通してしようと思ったことが全部で来た」
と言っていただける、
誉れを受ける者にしてくださろうと。

 

たとえ、迫害に遭い、いのちを捧げるようになったとしても、
平安と喜びの中にいる者にと。(ピリピ2:13~18)

 


 神の御子であられるイエスご自身が
ご自分の民であるユダヤ人から
そのような目に遭われたのですから。


「わたしは自分の思いを行うのではなく、
遣わされた方、【父である神】の御思いを行っている。
わたしと父は一つ思いになっている」というイエスを、
ユダヤ人の律法学者、パリサイ人たちは
石打の刑で殺そうとしたのですから。

 

そのユダヤ人たちにイエスは答えられました。
「わたしは、父から出た多くの良いわざを、
あなたがたに示しました。
そのうちのどのわざのために、
わたしを石打にしようとするのですか。」
 

ユダヤ人たちはイエスに答えた。
「あなたを石打にするのは良いわざのためではなく、
冒瀆(ぼうとく)のためだ。
あなたは人間でありながら、自分を神としているからだ。」

 

エスは答えられた。
「あなたがたの律法に、
『わたしは言った。「おまえたちは神々だ」』
と書かれていないでしょうか。
神のことばを受けた人々を神々と呼んだのなら、
聖書が廃棄されることはあり得ないのだから、
『わたしは神の子である』とわたしが言ったからといって、
どうしてあなたがたは、
父が聖なる者とし、世に遣(つか)わした者について、
『神を冒涜している』と言うのですか。

 

もしわたしが、わたしの父のみわざを行っていないのなら、
わたしを信じてはなりません。
しかし、行っているのなら、
たとえわたしが信じられなくても、
わたしのわざを信じなさい。
それは父がわたしにおられ、わたしも父にいることを、
あなたがたが知り、また深く理解するようになるためです。」

そこで、彼らは再びイエスを捕らえようとしたが、
エスは彼らの手から逃れられた。
そして、イエスは再びヨルダンの川向う、
ヨハネが初めにバプテスマを授けていた場所に行き、
そこに滞在された。
 

多くの人々がイエスのところに来た。
彼らは「ヨハネは何もしるしを行わなかったが、
この方についてヨハネが話したことはすべて真実であった」
と言った。
そして、その地で
多くの人々がイエスを信じた。(ヨハネ10:31~42)

 

 

 私たちも、私たちが受けるはずの辱めを
避けることなく受けてくださった、
このイエスを通して来てくださる
【聖である霊】と呼ばれる方が心に置いて下さる
【父である神】の御思いについて行く一日を。

今日も。

 

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