聖である霊と呼ばれる方と力の証明によって

武具を帯びようとする者が、

   武具を解く者と同じように勝ち誇ることはできない。列王記上20:11

 

  パウロのコリント人への手紙:

そちらに行ったとき、私は衰弱していて、

   恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。

 

私の言葉も宣教も、

   知恵にあふれた言葉によらず、

       “霊”と力の証明によるものでした。Ⅰコリント2:3~4


                (ローズンゲン日々の聖句10/16;木)

 

 

...


 武具を身に着け、これから戦おうとする者が、戦い終えて武具を外している者と同じように勝利を誇ることはできない。実際に戦う前にあまり大きなことを言わない方がいい(新改訳チェーン式バイブル脚注より)ということのようですね。


 パウロは、実際に、最初にコリントに行き、イエスに関わる喜びの音信を伝えた人でした。パウロによってコリントの教会は始まったのですね。だから、パウロは誇っていい立場でした。


 けれども、言うのですね。「私は衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした」と。
  パウロのコリントでの宣教は、パウロの力と知恵の言葉によったのではなく、聖である霊と呼ばれる方の働き、この方の力ある御業がパウロの宣教の言葉の証明として現れていったのだというのですね。


 私たちと共に出て行って下さる方は力と知恵に満ちている方。

ですから、私たちの側は、見通しも立たず、確信もなく、弱弱しく、恐れと不安に取りつかれ、膝小僧がガクガク震えていてもいいのだそうですね。震えながらでも、出て行ってみれば、聖である霊と呼ばれる方が一緒にいて下さることが、起こって来る力強い事実によって証明されるのだそうですから。

今日も。

 

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