無理やりにでも連れ帰りたいのだそうですが、自分から、自発的に帰って来て欲しいのだそうですね。あの方。
わたしは彼らを地の果てから呼び集める。
その中には目の見えない人も、歩けない人も、
身ごもっている女も、臨月の女も共にいる。
彼らは大いなる会衆となって帰って来る。エレミヤ書31:8
...
主人は僕に言った。
「通りや小道に出て行き無理にでも人々を連れて来て、
この家をいっぱいにしてくれ。」ルカ14:23
(ローズンゲン日々の聖句8/28;金)
神の民と呼ばれながら、一心に、天の神、主に心を寄せているのではなく、なお、自分の理性を最善とし、その判断に従って、自分に都合のいい神々を慕っていく民。天の神、主は、アッシリアを用い、バビロンを用いてこれを打ち、国々に散らされたのだそうです。
けれども、主は言われます。
「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。
それゆえ、わたしはあなたに誠実を尽くし続けた。
乙女イスラエルよ。
わたしは再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。
再びあなたはタンバリンで身を飾り、
喜び歌う者たちの踊りの輪に出て行こう。
見よ。わたしは彼らを北の国から連れ出し、
地の果てから彼らを集める(エレミヤ31:3~4、8)」と。
彼らは、大集団をなして帰って来るのだそうです。
元気な者、屈強な者ばかりではなく、
目の見えない人や歩けない人、身ごもっている人、臨月の人も。
あの方は、やさしく、慰めいたわりながら連れ帰って下さるのだそうです。
そして、その神の民と呼ばれた人たちだけでなく、今まで、契約とは縁がなく、神なく、望みなく生きていた、招かれていなかったはずの人々、ふさわしくないと思われていた人々も、街道や垣根のところから連れて来られるのだそうです。
礼服は、主人のほうで用意して下さって。
「聖である霊」と呼ばれる方が、求める者を上からすっぽり覆って下さり、「天の父」と呼ばれる方の、一人ひとりに関する御思いを受け入れる者の心に思わせて下さって、「天の父」と呼ばれる方と思いを一つにし、行動を一つにし、存在をひとつにする天の御国での生き方を身につけながら。
今日も。
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