心の欲するところに従えども矩(のり)をこえずという自由な生き方が私たちにも。

モーセが手を海に向かって差し伸べると、
主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返された。
出エジプト14:21

自由を得されるために、
キリストは私たちを自由の身にしてくださったのです。
ガラテヤ書5:1

           (ローズンゲン日々の聖句4/22;水)

 神の民がエジプトから解放されるためには、彼らを再び、奴隷にしようとして追いかけてくるエジプトの軍勢とはっきり切り離される必要があったようですね。
 あの時、天の神、主は、モーセに、手を海に向かって差し伸べさせ、夜もすがら激しい東風を吹かせて海を押し返されたので、イスラエルの民は乾いた地を行くように海の中を渡ったのだそうです。
 そして、エジプト軍の戦車隊が彼らを追いかけて海に入って来たとき、向こう岸に渡ったモーセに、再び、手を海の上に向けさせて海を元の状態に戻し、エジプト軍を海の中で全滅させられたのだそうです。

 私たちが、善悪を知るようになっている、旧い、生まれた時からの霊のままで、自分の努力で天の神、主の御思いのとおりに生き、神である主と一つ心になるという旧い契約から解放され、自由にされるためには、エジプトの戦車隊ではなく、天の神、主、独り子であられる方が、私たち、すべての人間の罪を背負って、自ら罪びと、反逆者として処刑され、父である方から呪われた者となるしか方法がなかったようですね。

 それで、永遠の昔から父である方と共におられ、この方と共にこの天と地、この人間の世界を創造された独り子であられる方が、人間として人間の世に生まれて下さり、およそ、33歳の頃、自ら進んで捕えられて下さり、十字架刑での処刑によって罪びと、反逆者として天と地の間に掲げられ、呪われた者となって下さったのだそうです。

 このことによって、私たち人間の、生まれた時からの霊は処刑された者として扱われ、私たちは、旧い契約から自由にされ、新しく生きる者とされているというのですね。
だから、二度と奴隷のくびきにつながれないようにと勧められているのだそうです。

 生まれた時からの霊が処刑済みの扱いになっているといっても、私たちのうちにこれしか居なければ、私たち、これで生きるしかないわけですけれど、天の神、主、もう一人の助け主、聖である霊と呼ばれる方が私たちのうちに来て下さって、この方が私たちの心に書きしるして下さる、天の神、主、御父から来る思いによって生きる者として下さるというのですね。

 それで、この方をお迎えしなさい(ヨハネ20:22、使徒2:4、39)、この方によって歩みなさい(ガラテヤ5:16)。この方に導かれて進もうではありませんか(ガラテヤ5:25)と勧められているのだそうです。

 私たち、なお、旧いとされた、生まれた時からの霊によって生きている者ですけれど、イスラエルの民が海によって出てきたエジプトからはっきり区別されたように、この旧い生き方から決別し、新しい生き方、聖である霊とお呼びしている方が心に書き記して下さる思い、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制の思いにに導かれて進みたいものですね。
今日も。

 

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