かなぐり捨てていくのだそうです。あの方の前に

あなたがたは恵みにより、信仰によって救われました。このことは、神の賜物です。エフェソ書2:8(今週の聖句)  痛手に先立つのは驕り。つまずきに先立つのは高慢な霊。箴言16:18  私たちも、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。ヘブル書12:1     (ローズンゲン日々の聖句7/20;日) 驕り、高ぶり、それが痛手につながったり、つまずきにつながるのは、あの方の御愛から出ていることなのでしょうか。驕り、高ぶりのまま、順調にいけば、それに気がつかないままに過ぎ、取り返しのつかないところにまで行ってしまいますものね。それで、あの方がストップをかけて下さったのかもしれませんね。行きづまりやつまずきを通して、自分が何者でもないことを知り、あの方を求めることになるなら、救いにつながるのですものね。... 驕り、高ぶり、自分を何者かであるように思う思いは、善悪を知るようになった人間の特性なのでしょうね。 私たち、イエス・キリストの十字架刑での処刑に合わせられ、処刑されてしまった者、と言っても、それは法律の手続き上のことであって、なくなってしまったわけではないのでしょうね。だから、おごりや高ぶり、不満や人を批判する思いはどんどん出て来る。 それを、死んでしまった(処刑された)「生まれた時からの私」という霊から出て来たものと認めて(計算して)、あの方の前に投げ捨て、かなぐり捨てていっていいということのようですね。

それを出て来ないように抑え込んだり、出て来ない者にならなければと、がっぷり4つに組んで戦う必要はないのだそうです。 そして、新しく、私の内に来て下さった「聖である霊」が置いて下さる、あの方の御思いついて行けばいいのだそうですね。 そうすれば、生きるものになるのだそうです。私たち、今日も。

 

 

 

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