曙の光に照らされるように、あの方に相談しながら歩めるのだそうですね。私たちも。

主は多くの民を戒められる。
彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。イザヤ書2:4

 


これは我らの神の憐れれみの心による。
この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、...
暗闇と死の陰に坐している者たちを照らし、
我らの歩みを平和の道に導く。ルカ1::78~79

 

 

                     (ロースンゲン日々の聖句5/14;木)

 

 


 人々が、天の神、主を無視し、自分の理性の判断に頼って行動していくとき、若い者たち、気まぐれ者が国を治めるようになり、おのおの、相しいたげ、若い者は年寄りに向かって高ぶり、身分の低い者は高貴な者に向かって高ぶるというようになるのだそうです(イザヤ3:4~5)。


 人の世はこのようでありますけれど、終わりの日には、シオンからみおしえが出、エルサレムから主の言葉が出て、多くの人々が「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えて下さる。私たちは、その小道を歩もう」(イザヤ2:2~3)という日が来て、暗闇と死の陰に座っているような状態の者のそれぞれの心に、あけぼのの光のように主の御思いが来て、平和が実現する日が来るのだそうですね。


 私たち、自分で善悪を知る者になっていて(創世記3:22)、国を動かすような大きなことだけではなく、日常の、どちらを選んでも結果は大して変わりのない些細なことにまで、自分の判断を相手に押し付け、相手を自分の思うとおりに従わせようとして対立しあう者になっています。


 そのような私たちにも、旧約聖書で預言されていたとおりに、「イエスが十字架刑で処刑されるという苦しみを受けて下さり、三日目に死人の中からよみがえり、イエスの名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる人々に宣べ伝えられる(使徒24:46~47)」ようになった今、そのイエスの名によって、約束の「聖である霊と呼ばれる方」が来て下さり(使徒1:4~5)、私たちの心に「天の父」と呼ばれる方の思いを書き付けて下さるという預言、「父の約束」が実現するのだそうです(エレミヤ31:33、エゼキエル36:26~27)。


 足もとの小道を、この方の御思いをお聞きしながら歩ませていただけるのだそうですね。
今日も。

 

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