この杯、取りのけるわけには行かなかったのですね。私たちのために

主の言葉:
彼は
わたしを慕う者だから、
 
彼を
災いから
逃れさせよう。
詩篇91:14
 
 
 
イエスは祈られた。
「父よ、
御心なら、
この杯を
わたしから取りのけてください。
 
しかし、
わたしの願いではなく、
御心のままに
行ってください。」
 
すると、
天使が天から現れて、
イエスを力づけた。
ルカ22:42〜43
 
 
 (ローズンゲン日々の聖句3/1;土)
 
 
あの方は、
ご自身を愛し、
慕う者を
災いから守り、
逃れさせて下さる方なのですね。
 
でも、
このときの、
イエスの、
血の汗がしたたり落ちるような切なる祈り、
「この杯(十字架刑による処刑)を
取りのけてください」
との祈りに答えることは
されなかったのだそうです。
 
あの方が、
「われわれのかたちとして、われわれに似せて」
(創世記1:26)、
 
「私たちが一つであるように、彼らも一つである」
(ヨハネ17:11、21、22)
ものとして、
 
しかも、
機械的な一つではなく、
自由意思による、
愛と尊敬によって
一つになっていくものを欲しいと
願われ、
人間を造られたた時、
 
人間は、
その自由意思のゆえに
あの方との一つを嫌って、
自らが
「善悪を知る者」(創世記3:22)
となり、
 
自分一人で立って行く道
選ぶであろうことは
想定されていたのでしょうね。
 
それで、
人間がそうした時には
どうしようかということが
確認されていたのでしょうか。
 
御子である方が
人となって
人間の世界に降り、
 
人間の
「はずれ」と「そむき」の
責任の全部を
御自分に背負って、
天と地との間に上げられ、
呪われた者として
処刑されること。
 
この処刑によって、
人間の「はずれ」と「そむき」が解決されたときは、
 
「聖である霊」と呼ばれる方が、
人間一人一人の中に
来られて、
 
これを受け入れる者の心に
働きかけ、
 
その人その人への、
その時その時の、
あの方の御思いを
心に思うようにされ、
 
内側から、
心の思いが
あの方の思いと一つになっていくようにしよう
との確認が。
 
それで、
いよいよその時になった
この時、
 
あの方は、
御子イエスのこの祈りに答えて、
十字架刑を取り止めることは
できなかったということでしょうか。
 
イエスの十字架刑による処刑に、
すべての人間の、
そして
自然界、この宇宙のすべてのものの
滅び去るか、
創造の目的に回復されるかの
命運が
かかっていたのだそうですから。
 
イエスの十字架刑による処刑が
完了し、
 
受け入れる者の内に
「聖である霊」と呼ばれる方が来て下さる道が
完成した
今、
 
私たち、
「生まれた時からの霊」は、
イエスの十字架の処刑に合わせられて
処刑されたものと認めて、
 
新しく、
「聖である霊」と呼ばれる
このお方を
お迎えし、
 
このお方によって
心に書き付けられる、
あの方との一つ思いに
心を向けていきたいですね。
 
今日も。
 
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