すべての良いものを用意していて下さるのだそうですね。御心を行えるようにと。

どうか主よ、私たちに救いを。
どうか主よ、私たちに栄えを。
詩編118:25
 平和の神が御心にかなうことを
イエス・キリストによって私たちにしてくださり、
御心を行うために、
すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。
栄光がキリストにありますように。
ヘブル書13:21
...
      (ローズンゲン日々の聖句9/23;水)
 家を建てる者たちの捨てた石。
こんな石は使えない、役に立たない、と、見放され、見捨てられた石、それが礎の石となったとの預言なのですね。
「これは、主のなさったことだ。私たちの目には不思議なことである」(詩編118:22~23新改訳)と。
 この預言から、おそらく、1000年ほど後のエルサレム
当時のユダヤの指導者たち、祭司長、律法学者たちから、役に立たない者、邪魔者として、一人の男が十字架刑で処刑されたのだそうです。
 それは、過ぎ越しの祭りの前日、金曜日のことなのだそうですが、十字架につけられたのが午前9時、息を引き取られたのが午後3時頃、安息日が始まる日没が迫っていたので、その男、イエスの死体を引き取ったアリマタヤ出身のヨセフが、自分のために掘っておいた墓に納めたのだそうです。
 ところが、三日目、日曜日の早朝、マグダラのマリヤと数人の女性たちが、イエスのからだに香料を塗ろうと墓に行ってみると、イエスのからだはそこにはなく、天使が、「イエスはよみがえった」と告げたのだそうです。
 その後、イエスは、40日に渡って何度も弟子たちに現れて、自分が生きていることを実証したうえで、弟子たちの見ている前で、オリーブ山から、天の御父のもとに帰って行かれたのだそうです。
 そして、天の父と呼ばれる方の右の座に着かれたイエスによって、もう一人の助け主、「聖である霊」と呼ばれる方を、この方を受け入れる者に派遣してくださって、この方の働きによって、受け入れる者の心に天の父の御思いを置いてくださり、私たち一人一人に関わる部分において、私たちを、心を一つにして生きるようにし、御思いと一つ思いになってこれを行って行く者にしてくださるのだそうです。
 この救いの礎は、家を建てる者たちが捨てた石、あのナザレ出身の、十字架刑で処刑されたイエスなのだそうです。この方を土台として私たちの救いが打ち建てられ、天の父と思いを一つにし、行動を一つにした者としての、私たちの栄光があるのだそうです。
今日も。
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