災いだ、と言われるはずの者が、幸いな者と呼ばるのだそうですね。あの方によって。

災いだ、
悪を善と言い、
善を悪と言う者は。
 
彼らは
闇を光とし、
光りを闇とし、
 
苦いものを甘いとし、
甘いものを苦いとする。
イザヤ書5:20
 
 
彼らは、
生きている者と死んだ者とを
裁こうとしている方に、
申し開きを
しなければなりません
Ⅰペテロ4:5
 
 
 (ローズンゲン日々の聖句11/21;木)
 
 
それぞれが行った仕業に応じて
裁かれる時が
あるのだそうです。
 
正しく、公正に。
 
けれども、
あの方は
私たちを惜しんで下さり、
公正に裁けば
死刑判決を受けるしかない者を
救う道を
拓いて下さったのだそうです。
 
死刑執行を
過ぎ越す方法、
 
それは、
罪のない方が
処刑されて下さることによって、
 
その身代わりの死によって
死刑になるはずの者が、
処刑済みと
見なされるというものなのだそうです。...
 
そして、
それは
この歴史の中で
実現したのだそうです。
AD30年頃、
ユダヤのエルサレムで
一人の男が
ローマ兵の手によって
十字架刑で処刑されたのだそうです。
 
彼は、
何ひとつ、
死に値するような罪はないにもかかわらず、
「彼は痛めつけられた。
彼は苦しんだが、
口を開かない。
 
屠り場に引かれていく羊のように、
毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、
彼は口を開かない。」
(イザヤ53:7)
との預言のとおりに、
 
一言の無罪の抗弁もしないで、
黙って
十字架刑を受けられたのだそうです。
 
天と地の間に掲げられ、
呪われた者となって下さった
この方のお蔭で、
 
私たちは、
処刑済みの者と見なされ、
 
あの方の「子」の身分を下さる「霊」を
お迎えして、
 
あの方の御思いに沿って
歩むようになるのですね。
 
今日も。
 
 
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