主人のすることを知っている、友と呼ばれて

主にあって私の心は喜びます。サムエル記上2:1

 

 イエスの言葉:

もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。

僕は主人が何をしているか知らないからである。

わたしはあなたがたを友と呼ぶ。

父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。ヨハネ15:15

 

 ルカ22:1~6

 ルカ23:13~25

  (ローズンゲン日々の聖句4/12;水)

 

 私たちもイエスが完成してくださった救いにより、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方の中にいる者、御思いの中にいる者としていただいて、心、喜ぶ者にしていただけるのだそうです。

 

 イエスは、〔父である神〕が、イエスを通して伝えるようにおっしゃられたことは、みな、知らせた。

あなたがたは主人がすることを知っている者になったから、

そして、それを行うから、

あなたがたはわたしの友だとおっしゃっておられるようです(ヨハネ15:14~15)。

 

 イエスの12弟子のひとり、カリオテ村の人、ユダは、イエスが、自分たちが望んでいるような、王として立って、ローマ軍を打ち破り、ダビデの王国を再現する方向に行かないのを感じて、金をもらって、群衆のいないところで、イエスを祭司長たちに引き渡すことを承知したのだそうです(ルカ22:1~6)。

 

そして、このユダの手引きによって、深夜、弟子たちだけしかいないところで捕らえられたイエスは、祭司長たちによって、自分を王だと主張してローマ皇帝に反逆する者として訴えられたのだそうです。

そして、祭司長たちは群衆を扇動し、そのような罪は見当たらないから釈放すると言う、ローマ総督ピラトに迫って、イエスを十字架刑で処刑させたのだそうです。

暴動と人殺しのかどで処刑されるはずだったバラバに代わって。

バラバのために用意されていた十字架に。

 

 そのように、イエスは、私たちに代わって、私たちが負うはずだった〔的外れ〕の責任をご自身に負って十字架刑での処刑を受けてくださって、私たちの処罰が済んでいることにしてくださっているのだそうです。

 

 それで、このことが成っている今は、〔聖である霊〕と呼ばれる方が私たちのところに来られても、私たちが滅びてしまうことがないようにしてくださっているのだそうです。

 

 この、イエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方が、受け入れる者の心に、〔父である神〕が一人一人に思っていてくださる御思いを置いてくださるので(エゼキエル36:25~27)、受け入れる者は、「主人のすることを知っている友」としていただけて、〔父である神〕が、私たち一人一人を通してしようと思っておられることをする者に(ヨハネ15:14)していただけ、心。喜ぶ者にしていただけるるのだそうです。

 

 心に置いてくださる御思いについて行ってみればいいのだそうですね。

今日も。

 

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本国へ帰るのですね。その時まで

私はこの地では

宿り人にすぎない。詩編119:19

 

 私たちの本国は天にあります。

そこから主イエス・キリスト

救い主として来られるのを、

私たちは待っています。フィリピ書3:20

 

 ガラテヤ書2:16~21

 ルカ19:11~27(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句3/18;土) 

 

 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方によって、

「われわれのかたちとして、われわれに似せた者を」と望まれて創造された私たち人間(創世記1:26新改訳)。

 

 しかし、自分が神に取って代わろうとして、

「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になって(創世記3:5、22)、

神に背き、創造の目的からずれてしまい、的外れになっている私たちの〔生まれたときからの私〕という霊。

その、出来そこないになって、滅びに向かっている私たちを、

天の神、主は、なお、愛し、惜しんで、回復の道を用意してくださっているのだそうです。

 

 〔御子である神〕が、天の栄光の座を後にして、人として人の世に来てくださり、私たちの身代わりになり、私たちの〔的外れ〕の責任をご自身に負ってくださって、神に反逆した者、神に呪われた者となって十字架刑での処刑を受けてくださって、私たちの〔生まれたときからの私〕という霊を、処刑されたもの、死んだものとしてくださるのだそうです(ガラテヤ2:19~20)。

 

 そのうえで、新しい霊として、受け入れる者に、〔聖である霊〕と呼ばれる方が来てくださって、

受け入れる者の心に、〔父である神〕が一人一人に思っていてくださる御思いを置き、書きしるしてくださるのだそうです(エレミヤ31:33~34、エゼキエル36:25~28)。

 

 それで、受け入れる者は〔父である神〕と思いを一つにし、心を一つにする者としていただけて、

神に生きる者、

「われわれのかたちとして、われわれに似せて」いただいた者として、

イエスが言われる、

「それは、父よ。あなたがわたしにおられ、私があなたにいるように、彼らもわたしたちにおるようになり、彼らが(わたしたちと)一つになる」(ヨハネ17:21~23)者としていただけるようです。

 

 イエスは言われました。

「わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。

わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです」(ヨハネ12:26)と。

 

〔聖である霊〕と呼ばれる方は、私たちを「子としてくださる御霊」、神の子の身分を与えてくださる方。

それで、私たちもこの方によって〔父である神〕を「お父さん」と呼べる身分を与えていただけて、

イエス様と共にいて、

天の御国を相続する者(ロマ8:14~17)、天の御国の国籍を持つ者ともしていただけるのだそうです。

 

 十字架に架かられ、死んで墓に葬られ、

三日目、日曜日の早朝、墓から、新しい霊のからだに復活され、

40日に渡って何度も弟子たちに現れ、弟子たちと過ごされた後、

オリーブ山から、弟子たちの見ている前で、天の〔父である神〕の右の座に帰られたイエスは、

〔父である神〕が定められた時に、

受け入れている者たちを迎えに、再び、来られるのだそうです。

 

 その時まで、

「これで商売をしなさい」と1ミナ(給料100日分)を預けられ、王位を受けて帰る主人を待つしもべのように(ルカ19:11~27)、

イエスが王として来られるのを待つのですね。

託されているものを活用しながら。

今日も。

 

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悪魔の働きを滅ぼすためにこそ

悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、
神の子が現れたのです。Ⅰヨハネ38b3/5の週の聖句
 
 見よ、その日が来ればと、主なる神は言われる。
わたしは大地に飢えを送る。
それはパンに飢えることででもなく、
水に渇くことでもなく、
主の言葉を聞くことができぬ飢えと渇きだ。
人々は主の言葉を探し求めるが、
見いだすことはできない。アモス書81112
 
 シモン・ペトロの言葉:
主よ、私たちはだれのところに行きましょうか。
あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。
あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じ、
また知っています。ヨハネ66869
 
 マタイ4111
 詩編6(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句3/5;Ⅰ日)
 
 善きもの、それはすべて、天の神、主から出ているのだそうです(ヤコブ117)。
そして、悪魔に誘われて、自分で、さらに善きものになろうとして、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者になった」(創世記3522)時、人がその心に計ることはみな、悪いことだけに傾くようになり(創世記65)、人の世は暴虐で満ちる世になったのだそうです(創世記6 :11) 。
 
 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、この悪魔の働き、人を「神のひとりのようになり、善悪を知る者」にさせた業を滅ぼし、「われわれのかたちとして、われわれに似た」者に(創世記126)取り戻し、
〔父である神」、〔御子である神〕、〔聖である霊〕と呼ばれる神が心を一つにし、行動を一つにし、存在を一つにしておられる、その一つの中に加わる者にしようとしてくださっているのだそうです(ヨハネ172123)。
 
 それで、まず、〔神の子〕である方が、人が、天の神、主にそむき、離反し、神に対立、対抗している、〔的はずれ〕になっている責任を取り、人間の身代わりになって、私たち人間が受けるはずの処罰を、ご自身が受けるために、〔女の子孫〕として(創世記315)、ダビデ王家の子孫、処女マリヤを通して、ベツレヘムで生まれ、人間イエスとして人の世に現れて下さったのだそうです(ヨハネ114)。
 
 そして、およそ33歳の頃、当時のユダヤの指導者の妬みにより、ローマ兵を用い、十字架刑での処刑を受けられ、受け入れる者の「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている、〔生まれたときからの霊〕を、ご自分の十字架刑での処刑に合わせてくださり、処刑されたもの、死んだものと、手続きしてくださるのだそうです。
 
 そのうえで、受け入れる者に、もう一人の助け主、〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって、この方によって、〔父である神〕が一人一人に思っておられる御思いを受け入れる者の心に置いてくださり、受け入れる者が、御自身と同じ思いを持ち、一つ心になるようにしてくださり、「われわれのかたち、われわれに似た」者に回復してくださるのだそうです。
 
私たちが、この天の神、主からの恵みのプレゼントを受け取るなら、悪魔の業は打ち砕かれ、滅ぼされることになるのだそうです。
 
 今は、恵みの時、救いの日なのだそうですが、やがて、この時が閉じられるときが来るのだそうです。
閉じられれば、もう、この恵みの言葉、救いの言葉を聞くことができなくなるようです。
どんなに飢え渇き、求めても。
 
 また、世の中には、人を善いものにする、いろいろな道、教えがあります。
「分け登るふもとの道は多けれど、同じ高嶺の月を見るかな」と言われていますけれど、この天の神、主との〔一つ〕に到達できる道は、ペテロが言うように、このイエスによる、狭き門から入る道だけのようです。
 
 また、悪魔は、書かれた〔神のことば〕によって、私たちを「善悪を知る者」にならせようと誘惑して来ますが、そのようなときも、私たちは自分の理性の判断に頼らず、〔聖である霊〕と呼ばれる方に聞いて、書かれた〔神のことば〕の奥にある、神の本当の御思いと一つ思いになって、悪魔に対応していく者にもしていただけるようですね。
イエスのように(マタイ4111)。
ただ、天の神、主のあわれみと恵み、助けにより(詩篇6)。
この新しい週も。
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自分の目には正しいと見えるけれども

人間の道は自分の目に正しく見える。

  主は心の中を測られる。箴言21:2

 

 「私には、すべてのことが許されている。」

しかし、すべてのことが益になるわけではない。

 「私には、すべてのことが許されている。」

しかし、私は何事にも支配されはしない。Ⅰコリント6:12

 

 マタイ8:14~17

 エレミヤ書42:1~22

      (ローズンゲン日々の聖句10/6;木)

 

 「神のひとりのようになろうとし、善悪を知る者となっている私たち人間(創世記3:5、22)。

自分の理性を神とし、自分の善悪の判断を正しいとし、絶対化し、他の者を自分の判断のとおりに従わさせようとする者なのですね。

 

 エルサレムの住民が、自分が正しいとする道を歩み、他の神々に心を寄せ、立ち返るようにとの造り主である天の神、主のたび重なる呼びかけにも応じようとせず、ついに、天の神、主の懲らしめによってバビロン軍によってエルサレムは攻略され、多くの者が捕囚としてバビロンに連れ去られたのだそうです。

 

 さらに、残された人たちは、自分たちの理性の善悪の判断で、自分が正しいと思うとおりにエジプトに下って行ったのだそうです。

エレミヤを通して、「もし、あなたがたがこの国にとどまるなら、わたしはあなたがたを建てて、倒さず、あなたがたを植えて、引き抜かない。わたしはあなたがたに下したあのわざわいを思い直したからだ。

バビロンの王を恐れるな。わたしはあなたがたとともにいて、彼の手からあなたがたを救い出すからだ」、「エジプトに行ってはならない」といわれる天の神、主のことばに聞こうとも従おうともせずに。

 

 

 「神のひとりのようになろうとし、善悪を知る者」になっているその私は、天の神、主の創造の目的、「われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1:26)から大きく外れていることを認め、その私、「生まれたときからの私」という私自身の霊を、イエスの十字架刑での処刑に合わせていただき、処刑されたもの、死んだものと手続きしていただいて、新しい霊として「聖である霊」と呼ばれる方をお迎えし、この方が私たちの心に置いてくださる「父である神」の私たちひとり一人に思っていてくださる御思いによって生きるようにされた者。

その者には、「すべてのことが許されている」のだそうです。

 

 けれども、「すべてのことが許されている」からといって、すべてのことが益になるわけではないのですね。

 

 また、「すべてのことが許されている」からといって、それをしないではいられないとしたら、それはその出来事の奴隷となっていることであって自由ではないのだそうです。

自由になっている人は、それをする自由をもっており、しないでおられる自由ももっているのですね。

 

 だから、それをする自由を持っていても、自分がそれをすることが、他の人をつまずかせたり、益にならないと分かれば、しないでいる自由ももっているということなのだそうです。

 

 その自由において、イエスは、自分の自由意思で、自発的に、「私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負って」くださって、みもとに来た病人をいやしてくださったようです(マタイ8:14~17)。

 

 私たち、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっていて、自分の目に正しいと見える道を歩む者ですが、その判断も、天の神、主に差し出し、見ていただきながら、「聖である霊」と呼ばれる方が心に置いてくださる御思いに聞いていく者にもしていただけるのだそうです。

「御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか」(ガラテヤ5:25)と言われているように。

今日も。

 

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約束の言葉のとおりに、変わることなく

主の慈しみは、
  主の契約を守る人、

   命令を心に留めて行う人に及ぶ。詩編1031718

 

 イエス・キリストは、

きのうも今日も、

また永遠に変わることのない方です。ヘブル書138

 

      (ローズンゲン日々の聖句6/25;土)

 

 人は、草のように、野の花のように過ぎ去るのですね。

だから、人が考え出したさまざまな新しい教え、異なった教えに心を向ける必要はないのだそうです。

 

 詩編の作者は謳います。

 

「わがたましいよ。主をほめたたえよ。

私のうちにあるすべてのものよ。

聖なる御名をほめたたえよ。

主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。

主は、あなたのすべての咎(とが)を赦し、

あなたのすべての病をいやし、

あなたのいのちを穴から贖(あがな)い、

あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、

あなたの一生を良いもので満たされる。

あなたの若さは、鷲のように、新しくなる。

 

主はすべてしいたげられている人々のために、

正義とさばきを行われる。

主は、ご自身の道をモーセに、

そのみわざをイスラエルの子らに示された。

主は、あわれみ深く、情け深い。

怒るのにおそく、恵み豊かである。

主は、絶えず争ってはおられない。

いつまでも、怒ってはおられない。

私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、

私たちの咎に従って

私たちに報いることもない。

天が地上はるかに高いように、

御恵みは、主を畏れる者の上に大きい。

東が西から遠く離れているように、

私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。

父がその子をあわれむように、

主はご自身を恐れる者をあわれまれる。

主は、私たちの成り立ちを知り、

私たちがちりにすぎないことを

心に留めておられる。

 

人の日は、草のよう。

野の花のように咲く。

風がそこを過ぎ去ると、それは、もはやない。

その場所すら、それを、知らない。

しかし、主の恵みは、とこしえから、とこしえまで、

主を恐れる者の上にある。

主の義はその子らの子に及び、

主の契約を守る者、

その戒めを心に留めて、行う者に及ぶ」(詩篇103:1~18新改訳)と。

 

私たちにも。

今日も。

生ける水が、その腹から、大河となって流れ出るのだそうです。

キリストが私たちのために死んで下さったことにより、
  神は私たちに対する愛を示されました。ロマ書5:8(2/21の週の聖句)
 
大河とその流れは、神の都に喜びを与える、
  いと高き神のいます聖所に。
 神はその中にいまし、都は揺らぐことがない。詩編46:5~6
 
 
キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、
  霊の働きによって神の住まいとなるのです。エフェソ書2:22
 
 新しい都には、水晶のように光るいのちの水の川があるのだそうです。
その川は、神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れているのだそうですね(黙示録22:1~2)。
 
 イエスは、仮庵の祭りの最終日、シロアムの池から汲んだ水を神殿の祭壇に注ぐ日に、大声で叫んで言われたのだそうです。
「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その腹から(口語訳)、生ける水の川が流れ出るようになる」(ヨハネ7:37~38)と。
 
 やがて、イエスは、十字架に架かって死なれ、墓に葬られ、三日目、日曜日の早朝、復活され、40日にわたって何度も弟子たちに現れて、御自身が確かに生きていることを見せたうえで、弟子たちの見ている前で、オリーブ山から天の父である神の右の座に帰られたのだそうです。
 
 そのイエスが、父である神の右の座にあって、受け入れる者に派遣してくださる「聖である霊」と呼ばれる方。
この方をお迎えする者の腹からも、大河のように、この方の働きが流れ出すのだそうです。
 
 そして、身体の多くの肢体が、一つのからだとして、脳の指令のとおりに調和のとれた動きをするように、受け入れる者は、この方の働きによって、父である神の御思いのとおりに働くものとしていただき、一つからだ、神の御住まいと呼ばれるようにしていただけるのだそうです。
 
「聖である霊」と呼ばれる方をお迎えし、父である神が、今、私に対して持っておられる御思いを心に置いていただいて、一つ思いとしていただき、御思いのように生きる、御思いを実現する一日としていただけるのだそうです。
今日も。
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来てくださるのだそうです。私たちにも、力と愛と思慮分別の霊が。

うろたえてはならない。おののいてはならない。
 あなたがどこに行ったとしても
   あなたの神、主は共にいる。ヨシュア記1:9
 
神は、臆病の霊ではなく、
 力と愛と思慮分別の霊を私たちにくださったのです。Ⅱテモテ1:7
 
       (ローズンゲン日々の聖句2/20;土)
 
 こちら側はうろたえていても、おののいていても大丈夫。
天の神、主が共にいて下さるのだそうですから。
こちら側は、恐れおののきながらでも、お言葉に従って一歩踏み出してみるなら、主が御力を現し、いつしか、問題を通り過ぎさせてくださるのだそうです。
 私たちに代わって、私たちの罪のすべてを背負って十字架刑での処刑を受けてくださり、墓に葬られ、三日目に墓より復活され、天の父である神の右の座に帰られたイエス。
そのイエスが受け入れる者に派遣してくださる「聖である霊」と呼ばれる方。
その方は、力と愛と思慮分別の霊なのだそうですから。
この方が、いつも、いつまでも、受け入れる者と共にいてくださり(ヨハネ14:16)、
御父の御思いによって、導いてくださるのだそうですから。
 
 今までの、「生まれたときからの霊」から来る思いは、死んでしまっている者から来た思いと認めて、横においておいて、新しく来られた「聖である霊」が心に書き付けてくださる、御父の御思いを、私の思いとして、この思いによって行動していくようにしてくださるのだそうですね。「聖である霊」と呼ばれる方が。
今日も。
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