私たちの咎、背きのために、むち打たれ、槍で刺し通されてくださった方が

 彼(主の僕)が刺し貫かれたのは、
私たちの背きのためであり、
彼が打ち砕かれたのは、
私たちの咎のためであった。イザヤ書53:5

 私たちが神を愛したのではなく、
神が私たちを愛して、
私たちの罪を贖(あがな)ういけにえとして、
御子をお遣わしになりました。
ここに愛があります。Ⅰヨハネ4:10

 ヨハネ6:37~40(41~46)
 アモス書7:10~17(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句6/15;金)

 天の神、主、
「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗られる方は、
「さあ、人を造ろう。
われわれのかたちとして、
われわれに似せて」(創世記1:26)、と仰られ、

 〔父である神〕、〔御子である神〕、〔聖である霊〕と呼ばれる神が、
愛において、自由意思で、自発的に一つとなっておられる、
その一つに加わり、
愛において、自由意思で、自発的に、
ご自身と心を一つにし、
存在を一つにし、行動を一つにする者を、と願われて
私たち人間を造られたのだそうです。

 けれども、最初の人、アダムとエバは、
その、愛における神との一つの場にとどまることをせず、
もっと立派な者になろうとし(創世記3:5)、
自分一人の理性の判断で事の善し悪しを決めていく者、
「神のひとりのようになり、
善悪を知るように」なった(創世記3:22)のだそうです。
天の神、主に背き、対立、対抗する、
創造の目的から「的外れ」の者に。

 それで、愛と言っても、
その「神のひとりのようになり、善悪を知るようになった」私たちからは、
自分中心の、自分勝手な、
相手を自分の思うとおりに支配しようとする愛しか、
出て来ないのですね。

 ですから、この、「生まれたときからの私」のままで、
いくら、神を、人を愛しようとしても、
それは、天の神、主が願っておられる愛ではなく、
自己中心の、自分勝手な愛でしかないのだそうです。

 天の神、主は、そのような「的外れ」になった私たちを、
なお、愛し、
求め続けてくださって、
エルサレムのごみがゲヘナの谷で焼却されていたように、
私たちを焼却処分することを善しとしないで、
創造の目的のとおりに回復しようと計画してくださったのだそうです。

 〔父である神〕は、
〔御子である神、独り子である神〕を、
人間イエスとして、人の世に派遣し、
この方を私たちすべての人間の身代わりとして立て、
この方を、神に呪われた者として十字架刑で処刑することで、

 私たちの、
「神のひとりのようになり、善悪を知る」ようになっている
〔生まれたときからの私〕という霊を
処刑された者、死んだものと手続きしてくださるのだそうです。

 そのうえで、〔父である神〕は、
この、イエスによる「死」を受け入れる者に、
エスを通して、
もう一人の方、〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって(ヨハネ14:16)、
受け入れる者に「神の子」の身分を与え(ロマ8:15)、
一つ家族の者とし、

 この方の働きで、
受け入れる者の心に、
ご自身が私たち一人一人に思っておられる御思いを置いて、
受け入れる者がご自身と同じ思いを思い、
一つ心になるようにしてくださるのだそうです(エレミヤ32:31~34、エゼキエル36:25~28、ヨハネ17:21~22)。
善悪の判断をご自身と一つにする者にと。

 だから、イエスが、むち打ちの刑を受け、
十字架に架かり、
死んだことを確認するため、
ローマ兵によって脇腹から槍で突き刺されたのは、
私たちの咎、「的外れ」から回復させるための、
〔父である神〕のご計画の出来事であった、というのですね。

 私たちの〔生まれたときからの私〕という霊からは、
神を愛する思いは出て来ません。

 けれども、神は私たちを愛し続けていてくださって、
〔御子である神〕イエスによって、
私たちの、この、〔生まれたときからの私〕という霊を、
死んだもの、処刑されたものとしてくださって、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださり、

 受け入れる者がご自身と一つ思い、一つ心になり、
一つ家族としての語らいの中を生きる、
「永遠のいのち」を生きるようにしてくださるのだそうです。
終わりの日によみがえる」者ともして(ヨハネ6:37~46)。

  羊を飼い、いちじく桑の木を栽培していたアモスを呼び出し、
イスラエル王国に対する預言をする者にされた、
天の神、主は(アモス7:14~17)、

 私たちをとおしてしようと思われる
愛の業、祝福の業を、
私たちの今、置かれているそれぞれの場で現してくださるのだそうです。

 十字架刑で処刑されたイエスを通して来てくださる
〔聖である霊〕と呼ばれる方によって。
今日も。

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天にあるもの、地にあるもの、すべてのものが一つに集められる、その時が満ちて

 神が私たちを憐み、祝福し、
御顔の輝きを私たちに向けてくださいますように。
あなたの道をこの地が知り、
御救いをすべての民が知るために。詩67:2~3

 神は私たちに
キリストにおいて決められた御心により奥義を
知らせました。
その御心は
時が満ちるに及んで完成し、
天地にあるものは一つにされます。エフェソ書1:9~10

 マタイ15:29~39
 アモス書7:1~9(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句6/14;木)


 天の神、主、「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗られる方は、
私たちを憐み、祝福し、
御顔の輝きを私たちに向け、
私たちの上に照り輝かしてくださる方、なのだそうです。

 それで、地は、神である主の道を知り、
御救いをすべての国々が知るようになり、
国々の民がこぞってこの方をほめたたえる、のだそうです。

 天の神、主は、
豊かな恵みにより、
私たちを、世界の基の置かれる前から、
イエス・キリストにあって選び、

エスの血による贖い、罪の赦しにより、
御前で聖く、傷のない、ご自分の子にしようと、

 そして、天にあるもの、地にあるもの、いっさいのものを、
キリストにあって一つに集めようと、
愛をもってあらかじめ定めておられる、のだそうです。

 これは、神のご計画の時が満ちて実現する(エペソ1:4~10新改訳)、
のだそうです。

 天の神、主が、
イスラエル王国のそむきの罪を罰するため、
イナゴを造り、地の青草を食い尽くさせようとされたとき、

 アモスが、
「神、主よ。どうぞお赦しください。
ヤコブはどうして生き残れましょう。
彼は小さいのです」と、執り成すと、
神である主は、ご計画を思い直し、
「このことは起こらない」と仰せられたのだそうです(アモス7:1~3)。

 イエスが寂しい所に退かれたときも、
大勢の人の群れが、足のなえた者、手足の不自由な者、
盲人、口のきけない者、そのほか多くの人をみもとに連れて来たのだそうです
それで。イエスは彼らをいやされたのだそうです。

 そして、「かわいそうに、
この群衆はもう三日間もわたしといっしょにいて、
食べる物を持っていないのです。
彼らを空腹のまま帰らせたくありません。
途中で動けなるといけないから」とおっしゃられ、
弟子たちの手元にあった7つのパンと少しの小さい魚で、
人々を満腹にさせ、帰らせたのだそうです。
女と子どもを除いて、男4000人ほどの人たちを(マタイ15:29~39)。

 このように、天の神、主は、
人々の罪を打たれることについては、思い直したり、
寛容と忍耐をもって実行を先に延ばして、
私たちの立ち返りを待ってくださるのですが、

 恵みの出来事、祝福の出来事は、
予定外のことも行って下さり、
ご計画は、そのとおりに、間違いなく実行してくださるのだそうですから。
今日も。

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万軍の主の守り、助けの中にいる、神に知られている者は

 翼を広げたとりのように、
万軍の主はエルサレムの上にあって守られる。
これを守り、助け、かばって救われる。イザヤ書31:5

 神が据えられた堅固な基礎は揺るぎません。
主はご自分の者たちを知っておられる。Ⅱテモテ2:19

 エフェソ書4:(8~10)11~16
 エフェソ書4:17~24(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句4/19;木)

 天の万軍、天使の万軍に号令し、これを意のままに用いられる方、
天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、
翼を広げ、跳びかける鳥のように、
現代的に言うなら、飛び交う航空機のように、ということでしょうか、
エルサレムの上にあって守り、助け、
かばって救い出し、解放されるのだそうです。

 私たちには、軍事的な攻撃もありますが、
思想的な、神学的な攻撃もあるのでしょうね。

 復活がすでに起こったとか(ⅡテモテⅡ:18)、
エスが復活されたというのは、事実ではなく、
弟子たちが作った神話だ、とかの。

 それにもかかわらず、神の不動の礎(いしずえ)、基礎は
堅く、堅固に置かれていて、揺るぐことはなく、
それには、「主はご自分に属する者を知っておられる」
また、「主の御名を呼ぶ者は、だれでも不義を離れよ」との
銘が刻まれているのだそうです。

 大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。
ある物は、尊いことに、ある物は卑しいことに用います。

 天の神、主は、私たちを、何の益にもならず、
聞いている人々を滅ぼすことになるような、ことばについての論争や
俗悪なむだ話などから離れさせ、
尊いことに使われる器にし、
有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものにしようと
願っていてくださるのだそうです(Ⅱテモテ2:14~21)。

 そしてイエスに属する者たちを整えて、
キリストのからだの一部としての奉仕の働きをさせ、
キリストのからだを建て上げるため、
ある人を使徒、預言者、
ある人を伝道者、ある人を牧師また教師とし、
また、一人一人を御思いのとおりの働きのために立てられるのだそうです。

 私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、
完全におとなになって、
キリストの満ち満ちた身たけにまで達するために。

 そして、私たちがもはや、子どもではなくて、
人の悪だくみや、人を欺く悪賢い策略により、
教えの風に吹き回されたり、
波にもてあそばれたりすることがなく、
むしろ、愛をもって真理を語り、
あらゆる点において成長し、
かしらなるキリストに達することができるように、と。

 キリストのからだ全体は、
キリストによって、
一つ一つの部分である私たち一人一人が、
あるいは、地域教会が、
その力量にふさわしく働く力により、
また、備えられたあらゆる結び目によって、
しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、
愛のうちに立てられるのだそうですから。

 私たちは、人を欺く情欲によって滅びていく古い人、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている(創世記3:5、22)
〔生まれたときからの私〕という霊を脱ぎ捨てる、
エスの十字架刑に合わせていただいて処刑されたもの、
死んだ者と認めて横に見ながら、
復活し、天の父である神の右の座に帰られたイエスが派遣してくださる
〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えして、
この方が心に置いてくださる〔父である神〕の御思いを私の思いとしていって、
心を新しくしていただき、
真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、
神のかたちである新しい人を着るようにしていただけるのだそうですから。

神の者として、神の守りのうちで。
今日も。

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神が、まず私たちを愛してくだ、さって命を得るようにと

 わたしが選ぶ断食とは、
さまよう貧しい人を家に招き入れること。イザヤ書58:7

 私たちが愛するのは、
神がまず私たちを愛してくださったからです。Ⅰヨハネ4:19

 マタイ9:35~10:1(2~4)5~7
 エフェソ書4:1~6(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句4/17;火)

 イエスは、「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける」と仰られました。
エスが派遣され、受け入れる者に来てくださる
〔聖である霊〕と呼ばれる方が、
私たちの心に、
エスを通して、
〔父である神〕の私たち一人一人に思っておられる御思いを置いてくださるので、
受け入れる者は、その心に来た御思いを聞き分けるようになる、
ということでしょうか。

 イスラエルの律法に熱心な人々は、週に二度も断食し(ルカ18:12)、
「なぜ、私たちが断食したのに、
あなたはご覧にならなかったのですか。
私たちが身を戒めたのに、
どうしてそれを認めてくださらないのですか」(イザヤ58:3新改訳)
と言っていたようです。

 けれども、天の神、主は、
宗教行事的な、表面的な断食を求めておられたのではなかったようです。

 それで、「わたしの好む断食は、これではないか。
悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、し
いたげられた者たちを自由の身とし、
すべてのくびきを砕くことではないか。
飢えた者にはあなたのパンを分け与え、
家のない貧しい人々を家に入れ、
裸の人を見て、これに着せ、
あなたの肉親の世話をすることではないか」(イザヤ58:6~7)
と言っておられるようです。

 〔父である神〕は、私たちを愛してくださって、
その愛のゆえに、
そのひとり子を、人間イエスとして、人の世に遣わしてくださり、
その方を私たちの身代わりにして十字架刑で処刑し、
私たち自身である、私たちの〔生まれたときからの霊〕を
処罰済み、処刑されたもの、死んだものと手続きしてくださっているのだそうです。

 そのうえで、受け入れる者にもう一人の助け主(ヨハネ14:16)、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださり、
この方によって、ご自身の御思いを私たちの心に置いてくださり(エレミヤ31:33)、
受け入れる者が、ご自身と思いを一つにし、
心を一つにして生きる(エゼキエル36:25~28)、
いのちを得るようにしてくださっているのだそうです(Ⅰヨハネ4:9)。

 それで、受け入れる者は、
「断食」、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっていて(創世記3:5、22)、
自分の理性の善し悪しの判断のままに、
自分の好むことをする(イザヤ58:3b)
〔生まれたときからの私〕という霊から出て来る思いを、
死んだ者から出て来た思いであると認めて、横に置き、
心に来た〔父である神〕の御思いを聞き分け、
その思いについて行く生き方ができるようになるのだそうです。

 イエスが、心に来た、〔父である神〕の御思いと一つ心になって、
羊飼いのいない羊のように弱り果てて倒れている群衆を、
かわいそうに思われ、
12弟子に、汚れた霊どもを制する権威をお授けになり、
霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやし、
死人を生かし、
ツァラート(ハンセン病など、伝染性の重い皮膚病)に冒されている者をきよめ、
「天の御国は近づいた」と宣べ伝えさせたように(マタイ9:36~10:1、7~8)。

 また、〔父である神〕は、私たちが、
謙遜と柔和の限りを尽くし、
寛容を示し、
愛をもって互いに忍び合い、
平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保つよう、
ご自身と一つ思いになるように(エペソ4:1~6)、とも
願っていてくださるのだそうですから。
今日も。

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神である主が良いと思われることを、していく者に

 どうか主が私に良いと思われることを、
私にしてくださるように。
私はここにおります。サムエル記下15:26口語訳

 ペテロがイエス
「主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」
と言うと、
エスは「わたしの小羊を飼いなさい」
と言われた。ヨハネ21:15

 Ⅰペテロ2:1~10
 エフェソ書2:11~22(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句4/13;金)

 最初の言葉は、ダビデ王が、息子のアブシャロムの反乱に遭い、
急いでエルサレムから脱出する時、祭司ツアドクに言ったものですが、
私たちも、ダビデと同じように、
天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方が、
「私に良いと思われることを、私にしてくださるように」
と言う者でありたいですね。

 十字架刑での処刑を受けてくださり、
墓に葬られ、
三日目に死人の中から新しい霊のからだに復活されたイエスが、
ガリラヤ湖で弟子たちに現れられた時のこと、
エスは弟子たちと朝食を共にしたあと、
ペテロに、三度、問われたのだそうです。
「あなたはわたしを愛しますか」と。
アガペー(完全な愛、神の愛)で、二度、
そして、フィレオ―(兄弟愛)で答えるペテロに、
三度目はフィレオ―で愛するかと。
そして、「わたしの小羊を飼いなさい」と。

 筆頭弟子を自認し、
エスに、「あなたのためにはいのちも捨てます」と言い切ったペテロ。

 しかし、イエスが捕らえられ、裁判を受けている大祭司の庭で、
門番の女や下役から問われたとき、
三度も、「そんな者ではない」と
エスの弟子であることを否定し(ヨハネ18:17、25、27)、
「あの人を知りません」(ルカ22:57)と言ったのですね。

 そのようなペテロに、
エスは、三度、「わたしを愛するか」と尋ねられて、
「わたしの小羊を飼いなさい」と命じられたのだそうです。

 私たちも、イエスと一つにしていただいて、
以前は神の民でなかったのに、神の民としていただき、
以前はあわれみを受けない者であったのに、あわれみを受け、
選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、
神の所有とされた民としていただき、
やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方の
すばらしい御業を体験し、
証しする者にしてくださるのだそうです(Ⅰペテロ2:9~10)

 キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、
約束の契約については他国人であり、
この世にあって望みもなく、神もない者でしたが、
キリスト・イエスの中にあることにより、イエスの血によって、
〔聖である霊〕と呼ばれる方において、
神の家族としていただき、
〔父である神〕のみもとにはばかることなく近づくことができ(エペソ2:11~22)、〔父である神〕の御思いを心に置いていただいて、その御思いを実現していく者にしていただけるのだそうです。主が良いと思われることをしていく者に。
今日も。

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慈しみ、深い御憐れみをもって

 神よ、私を憐れんでください。
御慈しみをもって、
深い御憐れみをもって、
背きの罪をぬぐってください。詩51:3

 私たちはこの御子において、
その血によって贖(あがな)われ、
罪を赦されました。
これは、神の豊かな恵みによるものです。エフェソ書1:7

 ヨハネ17:9~19
 エフェソ書2:1~10(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句4/12;木)

 私たち、人間は、
創造主である天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方に
背き、対抗している者なのですね。

 「さあ人を造ろう。
われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1:26)との、
御思いにおいて造られていながら、
その、天の神、主と思いを同じくし、
心を一つにしていく生き方を嫌い、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」(創世記3:5、22)になって、
自分自身である〔生まれたときからの私〕という霊から来る
自分の理性の判断で善し悪しを決め、
その思いのとおりに生きる者になっているのだそうですから。

 神に対抗し、天の神、主よりも善き者に、
上の者になろうとして(イザヤ14:13~14)。

 〔御子である神〕は、〔父である神〕の御思いを受けて、
ご自身の血、いのちを私たちに代わって支払うことによって
(血はいのちなのだそうですから)、
私たちを贖おう(買い戻そう)とされて、
天の〔御子である神〕の位を後にして、
「女の子孫」として(創世記3:15)、
ダビデの子孫であるナザレ村の貧しい一人の処女
マリヤの胎を通して(イザヤ7:14、マタイ1:18~25、ルカ1:34)、
人の世に来られ、
およそ33歳の頃、私たちのそむき、「的外れ」の責任を負って
十字架刑での処刑を受けてくださったのだそうです。

 それで、〔父である神〕は、このイエスの受けられた処刑によって、
受け入れる者の処罰は済んでいる、終わっているとしてくださるのだそうです。

 そのうえで、受け入れる者に、
もう一人の助け主、〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって、
この方によって、私たちの心に、
ご自身が私たち一人一人に思っておられる御思いを置き、
受け入れる者がご自身と一つ思い、一つ心になって、
ご自身と一つの者となって生きるようにしてくださるのだそうです。
〔父である神〕と〔御子である神〕イエスが一つとなっておられたように(ヨハネ17:11)。

 私たち、自分の罪過と罪の中に死んでいた者であって、
それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、
空中の権威を持つ霊、この世の支配者であるサタンに従って歩み、
自分の肉(〔生まれたときからの私〕という霊)から来る欲の中に生き、
その心の望むままを行い、
生まれながら御怒りを受けるはずの者でした。

 しかし、憐れみ豊かな神は、
私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
受ける何の資格もない者を、
ただ、恵みによって、
罪過の中に死んでいるこの私たちをイエスとともに、
エスと一つになっている者として生かし、
エスと一つのものとして、イエスとともによみがえらせ、
ともに天の所、
神の子の身分の場所に座らせてくださるのだそうです(エペソ2:1~6)。

 それで、受け入れる者は、
この世にいる間も、良い行い、
〔父である神〕が私たち一人一人を通してしようと思われることを
行っていく者として用いていただけるのだそうです(エペソ2:10)。
神の備えの中で。
今日も。

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上にあるものを求めて

お前たちは、ただ隣人や兄弟の間で互いに、

「主は何とお答えになりましたか。

主は何とお語りになりましたか」とだけ言うがよい。エレミヤ書23:35

 

 あなたがたは、

キリストと共に復活させられたのですから、

上にあるものを求めなさい。

そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。コロサイ書3:1

 

 ヨハネ20:11~18

 ルカ24:50~53(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句4/19;水)

 

 天の神、主が、ご自身に立ち返るよう、預言者エレミヤを通して、南ユダ王国に呼び掛けておられた時、主は、祭司や預言者たちに対して言っておられるのですね。

「彼らは、偽りと自慢話でわたしの民を惑わしている。

わたしは彼らを遣わさず、彼らに命じもしなかった。

預言者でも、祭司でも、民でも、『主の宣告(託宣、主のことば)』という者があれば、その者とその家とを、私は罰する」(エレミヤ23:32~34)と。

主から遣わされ、命じられていない者は、自分の考えで、勝手に、「主はこう言われる」と言わないで、「主は何とお答えになりましたか。何とお語りになりましたか」と言うべきだ、と。

 

 自分自身である〔生まれた時からの私〕という霊を、イエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて処刑されたもの、死んだものとしていただき、

墓に葬られ、三日目に死人のうちより新しい霊のからだに復活されたイエスに合わせていただいて、イエスと共に復活したもの、

天の神の右の座に帰られたイエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えし、この方が心に置いてくださる〔父である神〕の御思いをわが思いとして生きるようにしていただいた者、

〔聖である霊〕と呼ばれる方を自分の新しい霊として生きるようにしていただいた者は、

上にあるもの、〔父である神〕の御思いを求め、御思いが自分を通してなっていくことを求める者になっていくようですね。

 

 復活したイエスに最初にお目にかかったマグダラ出身のマリヤのように、主が「告げよ」とおっしゃられたことを、自分の考えを差し挟まないで、そのまま伝える者に(ヨハネ20:17~18)。

そして、神の御業、〔聖である霊〕と呼ばれる方の働きを見、共にいて、喜びをもって神をほめたたえる者に(ルカ24:52~53)。

今日も。

 

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