死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったような喜び。

主は正しい。
私が主の口に背いたのだ。
哀歌1:18
 
 
私はここをたち、父のところに行って言おう。
「お父さん、私は天に対しても、

またお父さんに対しても罪を犯しました」と。ルカ15:18
 
          (ローズンゲン日々の聖句4/16;木)
 
 私たちは自分の蒔いた種を刈り取ることになるのですね。
でも、自分の背きの罪を認めて天の神、主に帰るならば、
天では大きな喜びがあり、
天の神、主は、私たちを受け入れ、子の身分を下さり、
子にふさわしく扱って下さるのだそうです。
 
 ちょうど、相続財産の自分の分を生前贈与してもらい、
金に換えて遠くの町に出て行き、
全部を使い果たして落ちぶれ、飢え死にしそうになって、
やっと父の家を思いだし、頭を下げて帰ってきた息子のように。
 
 父親は一言も叱らないで、遠くから息子を見つけ、
走り寄って抱き、口づけしたのだそうです。
そして、一番良い服を着せ、指輪をはめさせ、靴を履かせて、
祝宴を始めたのだそうです。
「死んでいたのが生き返り、
いなくなっていたのが見つかったのだから」と。
 
 きっと、その指輪は、
その家の息子であることを証明する紋章が彫ってあるものだったのでしょうね。
 
 私たちも、自分の背きを認めて、天の神、主のもとに帰って行くなら、神である主は、私たちを
子の身分を授ける霊と呼ばれる方で覆って下さって、
私たちに子の心、父と思いを一つにしていきたい願いを与えて下さって、
父と一つ思いをもつ者にして下さるのだそうです。
 
背きの罪の罰は、残らず独り子である方に負わせて。
今日も。