平和な存在になるのだそうですね。あの方によって

彼こそ、

まさしく

平和である。

ミカ書5:4

 

 

 

パウロの手紙:

 

互いにかみ合い、

共食いしているのなら、

互いに

滅ぼされないように

注意しなさい。

 

 

私が言いたいのは、

こういうことです。

 

霊の導きに従って

歩みなさい。

ガラテヤ書5:15〜16    

 

 (ローズンゲン日々の聖句6/20;金)

...

 

 

この方こそ、

まさしく

 平和そのものなのですね。

 

イエスは、

自分十字架につけ、

ののしりあざ笑っている人とも

対立せず、

 

かえって、

執り成しておられたのだそうですね。

 

「父よ。

彼らをお赦しください。

彼らは、

何をしているのか

自分で分からないのです」

と。

 

 

あの方との「一つ」を嫌って、

自分が

「善悪を知る者」となった

私たち、

 

常に、

自分一人がトップであろうとし、

良いもののすべてを独占したい者

なのですね。

 

 

そのようなもの同士が集まれば、

当然、

そこに

対立、争い、足の引っ張り合いが

起こるわけなのでしょうね。

 

 

また、

自分自身の中に

対立を持つ者でも

あるのですね。

 

こうあるべき、こうありたい、と願う

自分と

現実の自分との

ギャップ。

 

いつも二心。

 

内に平和のない

私自身が

そこにいるのですね。

 

 

アダムとイブの子孫として、

この、

はずれてしまっている状態を

引き継いで

生まれれ来た

私たち。

 

死ななければ

直しようのない

私たち。

 

 

あの方は、

御子である方を

人間として人間の世界に生れさせ、

 

この方を

十字架刑で処刑することで、

私たちの処刑が

終わったことにして下さったのだそうです。

 

生まれた時からの私という

「霊」は、

処刑されたもの、

死んでしまったものと

計算して下さっているのだそうですね。

 

 

そして、

死から復活し、

父である方の

右の座に帰られた

イエスによって、

 

もう一人の方、

「聖である霊」と呼ばれる方を

私たちのうちに派遣して下さって、

 

この方によって、

私たちの心の思いに、

父である方の御思いを

書き付けて下さるのだそうです。

 

それで、

私たち、

「生まれた時からの霊」から来る

思いは、

 

死んでしまっている者からの

思いと

計算して、

 

これを無視し、

 

「聖である霊」と呼ばれる方から来る

思いを

私の思いとして、

この思いについて行くとき、

 

あの方と

一つ思い、

一つ行動をとる者、

 

平和を内に持つ者と

なるのだそうです。

 

 

パウロが言うように、

この、

「聖である霊」と呼ばれる方から来る

「思い」に

従って歩み、

 

平和な存在、

平和を運んでくる存在に

なりたいものですね。

 

今日も。

 

 

 

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