心の思いの出どころを切り替えるのだそうです。新しい生き方をするには

私の魂よ、

主をたたえよ。

 

主は

お前の罪を

ことごとく赦し、

 

慈しみと憐れみの冠を

授けてくださる。

詩編103:2、4

 

 

 

 パウロの手紙:

生きているのは、

もはや

私ではありません。

 

キリストが

私の内に

生きておられるのです。

ガラテヤ書2:20
   

 

 (ローズンゲン日々の聖句6/7;土)

 

 

 

 あの方の慈しみと憐れみが

私の冠なのですね。


 

 

あの方が

私の罪を赦すためには、

 

御子である方が、

栄光の御位を離れて、

人として人間の世界に生まれ、

 

人間の世界にあっても、

王宮や邸宅ではなく、

貧しく低い位置にいて、

貧しい者、弱い者、社会からのけ者にされている者の友として歩み、

 

最期は

十字架刑という、

反逆者、重罪人としての処刑を受ける出来事が

あったのですね。


 

まさしく、

イエスが生まれる700年ほど前に記された預言のとおりに。

 

「彼には、

私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、

私たちが慕うような見ばえもない。

 

彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、

悲しみの人で病を知っていた。

 

人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。


 

まことに、

彼は私たちの病を負い、

私たちの痛みをになった。


 

だが、私たちは思った。

彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。


しかし、

彼は、

私たちのそむきの罪のために刺し通され、

私たちの咎のために砕かれた。


 

 主は、

私たちのすべての咎を、

彼に負わせた。」

(イザヤ53章)

 

 

 

あの方は、

このイエスの処刑を、

「生まれた時からの霊」という、私の処刑と

見なして下さり、

 

私という「生まれた時からの霊」は

十字架刑で処刑された者と計算して下さって、

死亡手続きを

完了していて下さるのだそうです。


 

そのうえで、

その私たちに、

「聖である霊」と呼ばれる方を派遣して下さって、

あの方の御思いを

私たちの心に書き付けて下さり、

 

私たちが、

「生まれた時からの霊」から来る思いによって

行動するのでなく、

 

「聖である霊」と呼ばれる方から来る、

あの方の御思いによって

行動するという、

 

新しい生き方が出来る者に

していて下さるのだそうです。

 

 

あの方は

私たちを通して

何をなさろうとしておられるのか。
 

気をつけていきたいですね。

私の心に来る

あの方の思いに。


 今日も。


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