共にいて語らう喜びで、満たして

まことに私たちの心は主を喜び、
私たちは
聖なる御名に拠り頼む。
詩篇33:21

 

いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
Ⅰテサロニケ5:16~17

 

 ロマ書4:1~8
 創世記19:30~38(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句2/8;水)

    ―――― ☆  ――――

 

 聖書が啓示している神、
天の神、【主】、
「『わたしはある(I am)』という者」と
名乗られる方(出エジプト3:14)は、
私たちの助け手、私たちの盾。
それで私たちはこの方を喜び、
この方に拠り頼むのですね。

 

この方は私たちの心を、
いつも喜びで満たしてくださる方なのですから。
絶えず、私たちの話し相手に、
相談相手になっていてくださって。

 

 

 それでパウロは、私たちを救ってくださると言われる
てんの神、【主】に信頼して義としていただく道と、
自分の行いによって自分の義を打ち立て、
その自分の義をもって神の前に立とうとする道の
違いについて言っています。

 

それでは、肉による私たちの父祖アブラハム
何を見出した、と言えるのでしょうか。

もしアブラハム
行いによって義と認められたのであれば、
彼は誇ることができます。

しかし、神の御前ではそうではありません。
聖書はなんと言っていますか。
アブラハムは神を信じた。
それで、それが彼の義と認められた」とあります。

働く者にとっては、報酬は恵みによるものではなく、
当然支払われるべきものとみなされます。

しかし、働きがない人であっても、
不敬虔な者を義と認める方を信じる(信頼する)人は、
その信仰(信頼)が義と認められます。
 

同じようにダビデも、行いと関わりなく、
神が義とお認めになる人の幸いを
、このように言っています。

 

「幸いなことよ、
不法を赦され、罪を覆われた人たち。 

幸いなことよ、
主が罪をお認めにならない人。」(ロマ4:1~8)

 

 

 私たち、自分の行いによって義を立てて
神の前に出て義と認められる道では絶望の者も、
神が手続きを完了された
エスの身代わりの死による赦しに信頼して、
それを義と認めてくださる
神の御前に立つことができるのですね。

 

このイエスを通して来てくださる
【聖である霊】と呼ばれる方による、
神との親しい語らいの中へと。

今日も。

 

       ~~~~~~~~~~~~~~


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