平和を来たらせる柔和な王。ロバの子に乗って入城される方。

見よ、あなたの王が来る。
 彼は神に従い、勝利を与えられた者。
 高ぶることなく、ろばに乗って来る。ゼカリヤ書9:9

 キリストは神の身分でありながら、
神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
かえって自分を無にして、
 僕の身分になられました。フィリピ書2:6~7


      (ローズンゲン日々の聖句9/3;木)

 


 キリスト紀元前、520年頃のこと、天の神、主は、ゼカリヤを預言者として立て、彼をとおしてこう記しています。

 


「シオンの娘よ。大いに喜べ。
エルサレムの娘よ。喜び叫べ。
 見よ。あなたの王があなたのところに来られる。
この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。
それも、雌ろばの子の子ろばに。

わたしは戦車をエフライムから絶やす。
 戦いの弓も絶たれる。
この方は諸国の民に平和を告げ、
その支配は海から海へ、大川から地の果てに至る。(ゼカリヤ9:9~10新改訳)

 


 そのときから550年ほど歴史は下り、主の年の30年頃の過ぎ越しの祭りの直前の日曜日、イエスという人物がエルサレムに入られたのだそうです。マタイが記録した、そのときのようすは次のようです。

彼らはエルサレムに近づき、オリーブ山のふもとのベテパゲまで来た。
そのとき、イエスは、弟子をふたり使いに出して、言われた。「向こうの村へ行きなさい。そうするとすぐに、ろばがつながれていて、いっしょにろばの子がいるのに気がつくでしょう。それをほどいて、わたしのところに連れて来なさい。もしだれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。そうすれば、すぐに渡してくれます。」
  そこで、弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにした。
そして、ろばと、ろばの子とを連れて来て、自分たちの上着をその(子ろばの)上に掛けた。イエスはその(子ろばの)上に乗られた。
  すると、群衆のうち大勢の者が、自分たちの上着を道に敷き、また、ほかの人々は、木の枝を切って来て、道に敷いた。
そして、群衆は、イエスの前を行く者も、後に従う者も、こう叫んで言った。
 『ダビデの子にホサナ。
 祝福あれ。主の御名によって来られる方に。
ホサナ。いと高きところに。』(マタイ21:1~9)

 


 イエスは、これから十字架に架かられて処刑される、その最後のエルサレム入城に際して、王として入城されたのだそうですが、軍馬ではなくろばに、それも、わざわざ、まだ人を乗せたことのない子どものろばに乗って入城されたのだそうです。柔和な王として。

 


 この方は、神の身分を持つ方、父である神と等しい方であり、天使の万軍に号令する方でありながら、人間を父である神と心を一つにする者に取り戻すため、自分を低く低くされて、王としてもろばの子に乗り、十字架の死にまで従われたのだそうです。

 


 この柔和な方が王として統治されるところでは、戦車もミサイルも廃棄されて、平和が実現するのだそうです。
この方が派遣される、「聖である霊」と呼ばれる方をお迎えし、この方が心に置いて下さる父である神の御思いについて行くとき、私たちの心にも、事多き中にあっても、平和が来るのだそうですね。
 今日も。


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