神が、まず私たちを愛してくだ、さって命を得るようにと

 わたしが選ぶ断食とは、
さまよう貧しい人を家に招き入れること。イザヤ書58:7

 私たちが愛するのは、
神がまず私たちを愛してくださったからです。Ⅰヨハネ4:19

 マタイ9:35~10:1(2~4)5~7
 エフェソ書4:1~6(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句4/17;火)

 イエスは、「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける」と仰られました。
エスが派遣され、受け入れる者に来てくださる
〔聖である霊〕と呼ばれる方が、
私たちの心に、
エスを通して、
〔父である神〕の私たち一人一人に思っておられる御思いを置いてくださるので、
受け入れる者は、その心に来た御思いを聞き分けるようになる、
ということでしょうか。

 イスラエルの律法に熱心な人々は、週に二度も断食し(ルカ18:12)、
「なぜ、私たちが断食したのに、
あなたはご覧にならなかったのですか。
私たちが身を戒めたのに、
どうしてそれを認めてくださらないのですか」(イザヤ58:3新改訳)
と言っていたようです。

 けれども、天の神、主は、
宗教行事的な、表面的な断食を求めておられたのではなかったようです。

 それで、「わたしの好む断食は、これではないか。
悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、し
いたげられた者たちを自由の身とし、
すべてのくびきを砕くことではないか。
飢えた者にはあなたのパンを分け与え、
家のない貧しい人々を家に入れ、
裸の人を見て、これに着せ、
あなたの肉親の世話をすることではないか」(イザヤ58:6~7)
と言っておられるようです。

 〔父である神〕は、私たちを愛してくださって、
その愛のゆえに、
そのひとり子を、人間イエスとして、人の世に遣わしてくださり、
その方を私たちの身代わりにして十字架刑で処刑し、
私たち自身である、私たちの〔生まれたときからの霊〕を
処罰済み、処刑されたもの、死んだものと手続きしてくださっているのだそうです。

 そのうえで、受け入れる者にもう一人の助け主(ヨハネ14:16)、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださり、
この方によって、ご自身の御思いを私たちの心に置いてくださり(エレミヤ31:33)、
受け入れる者が、ご自身と思いを一つにし、
心を一つにして生きる(エゼキエル36:25~28)、
いのちを得るようにしてくださっているのだそうです(Ⅰヨハネ4:9)。

 それで、受け入れる者は、
「断食」、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっていて(創世記3:5、22)、
自分の理性の善し悪しの判断のままに、
自分の好むことをする(イザヤ58:3b)
〔生まれたときからの私〕という霊から出て来る思いを、
死んだ者から出て来た思いであると認めて、横に置き、
心に来た〔父である神〕の御思いを聞き分け、
その思いについて行く生き方ができるようになるのだそうです。

 イエスが、心に来た、〔父である神〕の御思いと一つ心になって、
羊飼いのいない羊のように弱り果てて倒れている群衆を、
かわいそうに思われ、
12弟子に、汚れた霊どもを制する権威をお授けになり、
霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやし、
死人を生かし、
ツァラート(ハンセン病など、伝染性の重い皮膚病)に冒されている者をきよめ、
「天の御国は近づいた」と宣べ伝えさせたように(マタイ9:36~10:1、7~8)。

 また、〔父である神〕は、私たちが、
謙遜と柔和の限りを尽くし、
寛容を示し、
愛をもって互いに忍び合い、
平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保つよう、
ご自身と一つ思いになるように(エペソ4:1~6)、とも
願っていてくださるのだそうですから。
今日も。

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