慈しみ、深い御憐れみをもって

 神よ、私を憐れんでください。
御慈しみをもって、
深い御憐れみをもって、
背きの罪をぬぐってください。詩51:3

 私たちはこの御子において、
その血によって贖(あがな)われ、
罪を赦されました。
これは、神の豊かな恵みによるものです。エフェソ書1:7

 ヨハネ17:9~19
 エフェソ書2:1~10(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句4/12;木)

 私たち、人間は、
創造主である天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方に
背き、対抗している者なのですね。

 「さあ人を造ろう。
われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1:26)との、
御思いにおいて造られていながら、
その、天の神、主と思いを同じくし、
心を一つにしていく生き方を嫌い、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」(創世記3:5、22)になって、
自分自身である〔生まれたときからの私〕という霊から来る
自分の理性の判断で善し悪しを決め、
その思いのとおりに生きる者になっているのだそうですから。

 神に対抗し、天の神、主よりも善き者に、
上の者になろうとして(イザヤ14:13~14)。

 〔御子である神〕は、〔父である神〕の御思いを受けて、
ご自身の血、いのちを私たちに代わって支払うことによって
(血はいのちなのだそうですから)、
私たちを贖おう(買い戻そう)とされて、
天の〔御子である神〕の位を後にして、
「女の子孫」として(創世記3:15)、
ダビデの子孫であるナザレ村の貧しい一人の処女
マリヤの胎を通して(イザヤ7:14、マタイ1:18~25、ルカ1:34)、
人の世に来られ、
およそ33歳の頃、私たちのそむき、「的外れ」の責任を負って
十字架刑での処刑を受けてくださったのだそうです。

 それで、〔父である神〕は、このイエスの受けられた処刑によって、
受け入れる者の処罰は済んでいる、終わっているとしてくださるのだそうです。

 そのうえで、受け入れる者に、
もう一人の助け主、〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって、
この方によって、私たちの心に、
ご自身が私たち一人一人に思っておられる御思いを置き、
受け入れる者がご自身と一つ思い、一つ心になって、
ご自身と一つの者となって生きるようにしてくださるのだそうです。
〔父である神〕と〔御子である神〕イエスが一つとなっておられたように(ヨハネ17:11)。

 私たち、自分の罪過と罪の中に死んでいた者であって、
それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、
空中の権威を持つ霊、この世の支配者であるサタンに従って歩み、
自分の肉(〔生まれたときからの私〕という霊)から来る欲の中に生き、
その心の望むままを行い、
生まれながら御怒りを受けるはずの者でした。

 しかし、憐れみ豊かな神は、
私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
受ける何の資格もない者を、
ただ、恵みによって、
罪過の中に死んでいるこの私たちをイエスとともに、
エスと一つになっている者として生かし、
エスと一つのものとして、イエスとともによみがえらせ、
ともに天の所、
神の子の身分の場所に座らせてくださるのだそうです(エペソ2:1~6)。

 それで、受け入れる者は、
この世にいる間も、良い行い、
〔父である神〕が私たち一人一人を通してしようと思われることを
行っていく者として用いていただけるのだそうです(エペソ2:10)。
神の備えの中で。
今日も。

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