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自分の目には正しいと見えるけれども

人間の道は自分の目に正しく見える。

  主は心の中を測られる。箴言21:2

 

 「私には、すべてのことが許されている。」

しかし、すべてのことが益になるわけではない。

 「私には、すべてのことが許されている。」

しかし、私は何事にも支配されはしない。Ⅰコリント6:12

 

 マタイ8:14~17

 エレミヤ書42:1~22

      (ローズンゲン日々の聖句10/6;木)

 

 「神のひとりのようになろうとし、善悪を知る者となっている私たち人間(創世記3:5、22)。

自分の理性を神とし、自分の善悪の判断を正しいとし、絶対化し、他の者を自分の判断のとおりに従わさせようとする者なのですね。

 

 エルサレムの住民が、自分が正しいとする道を歩み、他の神々に心を寄せ、立ち返るようにとの造り主である天の神、主のたび重なる呼びかけにも応じようとせず、ついに、天の神、主の懲らしめによってバビロン軍によってエルサレムは攻略され、多くの者が捕囚としてバビロンに連れ去られたのだそうです。

 

 さらに、残された人たちは、自分たちの理性の善悪の判断で、自分が正しいと思うとおりにエジプトに下って行ったのだそうです。

エレミヤを通して、「もし、あなたがたがこの国にとどまるなら、わたしはあなたがたを建てて、倒さず、あなたがたを植えて、引き抜かない。わたしはあなたがたに下したあのわざわいを思い直したからだ。

バビロンの王を恐れるな。わたしはあなたがたとともにいて、彼の手からあなたがたを救い出すからだ」、「エジプトに行ってはならない」といわれる天の神、主のことばに聞こうとも従おうともせずに。

 

 

 「神のひとりのようになろうとし、善悪を知る者」になっているその私は、天の神、主の創造の目的、「われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1:26)から大きく外れていることを認め、その私、「生まれたときからの私」という私自身の霊を、イエスの十字架刑での処刑に合わせていただき、処刑されたもの、死んだものと手続きしていただいて、新しい霊として「聖である霊」と呼ばれる方をお迎えし、この方が私たちの心に置いてくださる「父である神」の私たちひとり一人に思っていてくださる御思いによって生きるようにされた者。

その者には、「すべてのことが許されている」のだそうです。

 

 けれども、「すべてのことが許されている」からといって、すべてのことが益になるわけではないのですね。

 

 また、「すべてのことが許されている」からといって、それをしないではいられないとしたら、それはその出来事の奴隷となっていることであって自由ではないのだそうです。

自由になっている人は、それをする自由をもっており、しないでおられる自由ももっているのですね。

 

 だから、それをする自由を持っていても、自分がそれをすることが、他の人をつまずかせたり、益にならないと分かれば、しないでいる自由ももっているということなのだそうです。

 

 その自由において、イエスは、自分の自由意思で、自発的に、「私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負って」くださって、みもとに来た病人をいやしてくださったようです(マタイ8:14~17)。

 

 私たち、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっていて、自分の目に正しいと見える道を歩む者ですが、その判断も、天の神、主に差し出し、見ていただきながら、「聖である霊」と呼ばれる方が心に置いてくださる御思いに聞いていく者にもしていただけるのだそうです。

「御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか」(ガラテヤ5:25)と言われているように。

今日も。

 

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