命の冠を一緒に受けようと

まことの神、主よ、御手に私の霊をゆだねます。
 私を贖(あがな)ってください。
詩編31:6
私たちはいつまも主と共にいることになります。
 ですから、主の言葉によって励まし合いなさい
。Ⅰテサロニケ4:17〜18

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      (ローズンゲン日々の聖句11/5;木)
一緒にならないかと提案して下さっているのだそうですね。あの方。一緒に食事をする仲になろうと(黙示録20)。
このような声をかけられて、うれしく思う人があり、煙ったく感じる人があり、けげんに思う人もあるのでしょうね。
仏教の言葉に、愛別離苦怨憎会苦というのがあるそうです。
一緒にいたい人と別れなければならない苦しみ、憎らしい人と一緒にいなければならない苦しみ。
 御子イエスと、あるいは、聖である霊と呼ばれる方と、いつも、いつまでも一緒にいることになる、それは喜びでしょうか、迷惑なことでしょうか。
天の父と呼ばれる方は、いつも一緒にいて、お互いを大切に思い合い、心を一つにし、思いを一つにし、行動を一つする者がもっと欲しいと願って、私たち人間を造られたのだそうです。
 それで、まず、人間の住まいとして、この宇宙と地球を創造し、地球に光りと闇があるようにし、海と陸地を分け、海の中に、そして陸地に植物を、そして動物を種類に従って造られ、全部用意が出来た後で人間を造りエデンの園におかれたのだそうです。
 けれども、最初の人、アダムトエバは、この方と一つになっているよりも、自分が、「神の一人のようになり、善悪を知る者になろう」と欲して、自分一人の判断で善悪を決めていく者になってしまったのだそうです。
 天の父と呼ばれる方は、それでも、私たち人間と一緒にいて、心を一つにすることをあきらめられないで、私たち人間を贖う(代価を払って買い戻す)ことを計画されたのだそうです。
 
 ご計画の時が満ちて、天の父と呼ばれる方は、御子と呼ばれる方を、人間イエスとして人の世に生れさせ、この方がおよそ33歳になられたとき、この方を十字架刑で処刑し、この方に命を、私たちを買い戻す贖い代(あがないしろ、買い戻しの代金)として支払ってくださり、受け入れる者には、さらに、聖である霊と呼ばれる方を派遣してくださって、私たちの心に、私たち一人一人に関わる御自身の思いを置いてくださり、私たちが天の父と一つ心になりながら生きていけるようにしてくださるのだそうです。
いつも一緒にいて、命の冠を受ける者にしていただけるのだそうです。
今日も。
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