愛してくださっているのだそうですね。とこしえの憐れみと慈しみをもって。あの方。

主よ、思い起こしてください。
あなたのとこしえの憐れみと慈しみを。詩編25:6
 
 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、
私たちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。
ここに愛があります。Ⅰヨハネ4:10
 
        (ローズンゲン日々の聖句9/5;土)
 
 天の神、主の憐れみ、慈しみが、私たちには見えなくなって、主は遠くへ行ってしまわれたか、私には関わって下さらなくなってしまったかのように感じられるとき、思い起こすのですね。
主の憐れみと慈しみはとこしえにあったことを。
天地が造られる前から、御思いの中に私たちはあったことを。
 
 「神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。
すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、
御前で聖く、傷のない者にしようとされました。...
神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、
愛をもってあらかじめ定めておられた」(エペソ1:3~5新改訳)たことを。
 また、「私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、
私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。
あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。
私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに」(詩篇139:15~16)であり、
「私が目ざめるとき、私はなおも、あなたとともにいます」(18)ことを。
 
 御子である方を、人として人の世に遣わし、私たち、すべての人間の、すべての罪を背負って十字架刑で処刑することは、天地の造られる前から、御心の中に定めておられたことなのだそうですね。
 私たちは愛されています。
とこしえの愛、変わることのない愛をもって。
だから、「聖である霊」と呼ばれる方が、私たち一人一人の心に思わせて下さる、この方の、私に関わる御思いが成ることを求めていけば、食べる物、着る物など、生活に必要なものは、加えて与えていただけるのだそうですから(マタイ6:31~34)。
今日も。
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