自分の弱さの場を言い表し、とりなし合い、祈り合うようにしていただけるのだそうですね。私たちも。

弱者を虐げる者は造り主を嘲る。箴言14:31
 
 パウロの手紙:
私の身には、
あなたがたにとって試練ともなるような事があったのに、
さげすんだり、忌み嫌ったりせず、
かえって、私を神の使いであるかのように、
また、キリスト・イエスででもあるかのように、
受け入れてくれました。ガラテヤ書4:14
 
        (ローズンゲン日々の聖句8/27;木)
 
 人間を造り、人間の住まいとしてこの大宇宙を造られた方は、
弱い者、貧しい者を特に心に留めていて下さる方なのだそうですね。
 
 天の神、主との一つになる関係を嫌がり、善悪を知る者、自分一人の判断で善悪を決めていく者になった私たち人間は、神の一人のようになろうとして、自分を全知、全能、永遠の存在にしようとするのですね。
自分が一番すぐれた者にならなければ気が済まないので、自分よりも弱い者を見ると安心し、自分の優位を見せつけるために弱い者をしいたげ、いじめるのでしょうか。
 けれども、弱い者をしいたげることは、その方を造られた造り主をあざけることになるのだそうです。
 
 使徒パウロがガラテヤ地方に入ったとき、パウロは、何か、身に弱さをもっており、しかもそれは、人々からさげすまれたり、忌み嫌われたりするようなものだったようですね。それにもかかわらず、ガラテヤの人々は、パウロが伝えるイエス・キリストに関わる「喜ばしい知らせ」をよく聞いて受け入れ、パウロを神の使いか、キリスト・イエスででもあるかのように接してくれたのだそうです。
 
 弱さの中にいる人、苦しんでいる人、病気の人、罪を犯している人、いろいろな弱さがありますが、「生まれたときからの霊」という私はから出て来る思いは、自分を一番にしないと気が済まないもの、弱い人をしいたげるものと認めて、イエス十字架の死を自分自身の死としていただいて、「聖である霊」と呼ばれる方をお迎えするなら、この方から来る思いによって、自分の弱さを互いに言い表し、互いにとりなし合い、祈り合うようにもしていただけるのだそうですね。私たち。(ヤコブ5:13~16)。
今日も。
 
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