世に、受け入れる一人ひとりに来られて、御業を現して下さるのだそうです。この方。

主は聖なる御腕の力を、
 国々の民の目にあらわされた。
 地の果てまで、すべての人が、
 私たちの神の救いを仰ぐ。イザヤ書52:10
...

 その光は、まことの光で、
 世に来てすべての人を照らすのである。ヨハネ1:9

      (ローズンゲン日々の聖句8/24;月)

「良い知らせを伝える者の足は、
 山々の上にあって、なんと美しいことよ。
 平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、
 救いを告げ知らせ、
 『あなたの神が王となる』とシオンにいう者の足は。
 聞け。あなたの見張り人たちが、
 声を張り上げ、共に喜び歌っている。
 彼らは、主がシオンに帰られるのを、まのあたりに見るからだ。
エルサレムの廃墟よ。共に大声をあげて喜び歌え。
 主がその民を慰め、エルサレムを贖(あがな)われたから。
 主はすべての国々の目の前に、聖なる御腕を現した。
 地の果て果てもみな、私たちの神の救いを見る。」(イザヤ52:7~10新改訳)

「初めに、ことばがあった。
ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
この方は、初めに神とともにおられた。
すべてのものは、この方によって造られた。
 造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。
 ~~~
すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。
この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。
この方はご自分の国に来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。
しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。
 私たちはこの方の栄光を見た。
 父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。
この方は恵みとまことに満ちておられた。」(ヨハネ1:1~14)

 紀元前700年頃、イザヤによって預言された、王として、すべての人の救い主として来られる方が、700年ほどの時を経て、貧しい一人の娘、ダビデ王の家系である処女マリヤを通して、ユダヤベツレヘムの家畜小屋で、イエス(主は救い)という名をもって生まれられたというのですね。

 そして、「ダビデの子よ、私たちをあわれんでください」と叫ぶ二人の盲人の目にさわり「あなたがたの信じているとおりになるように」と言うと、ふたりの目が見えるようになり(マタイ9:27~34)、人を生かすことばを語り、エルサレム入城に際しては、軍馬に乗り、軍隊を従わせてではなく、ろばの子に乗り、貧しい人や子供たちに迎えられて入城されたのだそうです。
  人々は、キリストとして、ダビデ王の後継者として王となりローマ軍を打ち破ってダビデ王国の再現を期待していたのに、また、ユダヤの指導者たちはそれを阻止しようとして捕え、十字架刑で処刑したのに、その処刑が、私たち、すべての人間のそむきの罪を背負っての、私たちに代わっての処刑だったのだそうです。

 しかも、これは、天地が造られる前から、人間が創造される前から、天の神、主の御心にあったご計画で、このイエスの代理の処刑によって、「聖である霊」と呼ばれる方が、この方を受け入れる者、一人ひとりの内に来て下さることが可能になり、この方が私たち一人ひとりの心に、一人ひとりに関わる「天の父」と呼ばれる方の御思いを思いとして置いて下さるので、私たちは「天の父」と思いを一つにしながら生きていく生き方が始まるのだそうです(エゼキエル36:25~28、使徒2:1~4))。
あの時から、2000年を経たこの日本においても、私たちにも。
 今日も。


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