私たちの内の霊が替われば、心が変わり、顔も口から出る言葉も変わるのだそうです。

 心に喜びを抱けば顔は明るくなり、
 心に痛みがあれば霊は沈み込む。箴言15:13

 人の口からは、心にあふれていることが出て来るものである。善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出す。マタイ12:34〜35
...

         (ローズンゲン日々の聖句6/18;木)

 


 心にあることが顔に出、精神状態に影響し、言葉として口から出て来るのだそうです。
そして、その心の思いはその人の霊から来るようですね。

 木の良し悪しはその実によって知られます。
 甘い柿の実がなるので甘柿の木だと分かり、渋い柿の実がなるので渋柿の木だと分かるように。

 悪い思いや悪い行動が出て来るのは、その心(あるいは魂)が問題であり、その心(魂)の思いの出どころであるその人の霊が問題のようです。

 創造された、あるべきところからはずれてしまっているその人の霊(脱線した列車のような)から出て来る心(魂)の思い、その思いによる身体の行動は、あるべきところからはずれた(的外れ、ハマルティア)な思い、行動になってしまうということでしょうか。。

 それで、あるべきところからはずれたその人の霊のままで、その人の思いや行動(たとえば、口から出て来る言葉など)を良いものにしようとする努力の結果には限界があるということのようですね。

 イエスは、夜、ひそかに訪ねて来たユダヤ人の指導者ニコデモに、「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」と言われ、
ニコデモが理解できなくて、「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか」と聞き返すと、
イエスは、「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。
 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
 風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです」と答えられ(ヨハネ3:1~8)、

 さらに続けて、「モーセが荒野で(イスラエルの民が神に背き、蛇が民に噛みつき、多くの者が死んだとき)、(青銅の蛇を作り、その青銅の)蛇を(竿の先に着けて)上げたように、人の子(イエスご自身)もまた(十字架刑で)上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子(イエスご自身)にあって永遠のいのちを持つためです」と言われたのだそうですが(ヨハネ3:14~15)、
私たち人間が新しく生まれる(私たち人間、ひとり一人のうちに新しい霊が来る)ためには、イエスご自身が十字架に釘づけにされ、天と地との間に上げられて、処刑されることが必要だったということのようですね。

 私たち、「生まれたときからの私」という霊かる来る心の思いや行動を改良するのには限界があることを認めて、内側に、新しい霊、生き生きとした、生命力に満ち、力と知恵に満ちた霊をお迎えし、この方について行けば、心(魂)は喜びに満ち、顔は明るくなり、私たちの口から出て来る言葉も、不平、不満、非難する言葉、引きずりおろす言葉から、喜び、平安に満ち、うれしくし、慰め、力づけ、立ち上がらせる言葉になり、天の父と呼ばれる方が、私たち自身に、また、私たちを通して周りの人に語ろうとしておられる言葉が、またこれからしようと思っておられるご計画が私たちの口から出て来るようになるのだそうです。
  今日も。

 

 

 

 

 


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