国境に平和を置いてくださるのだそうです。あの方が。

あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、
あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。
ルカ10:16
                                (今週の聖句)
 あなたの国境に平和を置いてくださる。詩編147:14
 
 だから、平和や互いの向上に役立つことを
追い求めようではありませんか。
ロマ14:19
                         (ローズンゲン日々の聖句6/7;日)
 イエスが神の言葉を話されたのは、神が無限に「聖である霊」と呼ばれる方を遣わされたから、なのだそうです(ヨハネ3:34)。
 そして、イエスは自分からはひと言も話さないで、ただ、父である神と呼ばれる方が話そうとしておられることだけを話したのだそうです(ヨハネ5:19、8:26~28)。
 それで、イエスはご自分のことを「わたしと父とは一つです」ということができた方だったのですね(ヨハネ10:30)。
 私たち、善悪を知る者になった者(創世記3:22)、天の神、主に、御自身と思いを一つにする者をと願って造られながら、この方と心を合せることを嫌い、自分の思いを実現する道を選んだ者の子孫であり、この方の御思いを思うことなく、自分の思いを成し遂げようと血道をあげる者です。
 けれども、イエスが、父である方の御思いに従って、私たち、すべての人間のこの背きの罰を背負って十字架刑で処刑され、私たちを処刑済みとの手続きを済ませて下さっている今、私たちのところに、イエスに代わって聖である霊と呼ばれる方が来て下さり、私たちの心に父である方の御思いを置いて下さるというのです。
 それで、私たち、「生まれたときからの私」という霊から来る思いを、イエスの十字架刑で処刑されてしまっている者からの思いであると認めて(計算して)、この「聖である霊」と呼ばれる方が私たちの心に置いてくださる、私に関わる、父である方の思いについて行くとき、その部分において、不完全ながら、私たちもイエスのように「父と一つ」が実現し、冒頭の言葉を言っていただけるのでしょうね。あくまでも、御思いに従っている部分において。
 そして、そのように、御思いに従う者に、天の神、主は、平和を置いてくださるのだそうです。具体的な国境にも、私と隣の人との境にも、また、私の中にいるもう一人の私との間にも。
 天の神、主は、私たちを平和な存在にしたいと思って下さっているようですね。そして、お互いに向上し合う関係になるようにと。
 それで、聖である霊が私たちの心に置いてくださる、その思いについて行ってほしいと思って下さっているようです。
 この新しい週も。
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