五体を、聖である霊と呼ばれる方に使っていただくのだそうです。

主の手が短くて救えないのではない。
主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。
むしろお前たちの悪が、神とお前たちとの間を隔てている。
イザヤ書59:1〜2

 かつて自分の五体を汚れと不法の奴隷として、
不法の中で生きていたように、
今これを義の奴隷として献げて、聖なる生活を送りなさい。
ロマ6:19
                (ローズンゲン日々の聖句5/26;火)
 天の神、主は、預言者イザヤを通して言われるのですね。
「実に、あなたがたの手は血で汚れ、指は咎で汚れ、
あなたがたのくちびるは偽りを語り、舌は不正をつぶやく。
正しい訴えをする者はなく、真実をもって弁護する者もなく、
むなしいことにたより、うそを言い、害毒をはらみ、悪意を産む。
彼らはまむしの卵をかえし、くもの巣を織る。
その卵を食べる者は死に、
卵をつぶすと、毒蛇が飛び出す。
そのくもの巣は着物にならず、
自分の作ったもので身をおおうこともできない。
そのわざは不義のわざ、
その手のなすことは、ただ暴虐。
その足は悪に走り、罪のない者の血を流すのに速い。
その思いは不義の思い、破壊と破滅がその大路にある。
彼らは平和の道を知らず、その道筋に公義がない。
彼らは自分の通り道を曲げ、そこを歩む者はだれも、平和を知らない。
それゆえ、公義は私たちから遠ざかり、
義は私たちに追いつかない。
私たちは光を待ち望んだか、見よ,やみ。
輝きを待ち望んだが、暗闇の中を歩む。
私たちは盲人のように壁を手さぐりし、
目のない者のように手さぐりする。
真昼でも、たそがれ時のようにつまずき、
闇の中にいる死人のようだ。
私たちはみな、熊のようにほえ、鳩のようにうめきにうめく。
公義を待ち望むが、それはなく、
救いを待ち望むが、それは私たちから遠く離れている。
それは、私たちがあなたの御前で多くのそむきの罪を犯し、
私たちの罪が、私たちに不利な証言をするからです。
私たちのそむきの罪は、私たちとともにあり、
私たちは自分の咎を知っている。
私たちは、そむいて、主を否み、
私たちの神に従うことをやめ、
しいたげと反逆を語り、心に偽りのことばを抱いて、つぶやいている。
こうして公正は退けられ、正義は遠く離れて立っている。
真理は広場でつまずき、正直は中に入ることもできない。」と(イザヤ59:3~14)。
 私たちは、このように、この五体を、神にそむき、自らが「善悪を知る者になった」(創世記3:22)「生まれたときからの霊」と呼ばれる「私」に使わせて、不法の奴隷として、不法の中に生きていましたが、
イエスの十字架刑での処刑を、この[生まれたときからの霊]と呼ばれる私の処刑と見なしていただいて、「生まれたときからの霊」という私は、死んでしまったものと認め(ロマ6:11)、
新に、復活し、天の父の右の座に着かれたイエスが派遣して下さる「聖である霊」と呼ばれる方をお迎えし、この方に、この五体を使っていただいて、
今度は、この五体を、義の奴隷として献げ、御心にかなった新しい生き方をする者にしていただけるのだそうです。
それで、勧められているのですね。
「御霊に満たされなさい」(エペソ5:18)。
「自分の肉を、十字架につけてしまい、御霊によって生きるのなら、
御霊に導かれて、すすもうではありませんか」(ガラテヤ5:24~25)と。
今日も。
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