弁護して下さるのだそうです。私たちの側に立って。あの方。

主よ、生死にかかわるこの争いを、私に代わって争い、
命を贖(あがな)ってください。
哀歌3:58

私たちが持っているこの希望は、
魂にとって頼りになる、安定した錨のようなものであり、

また、至聖所の垂れ幕の内側に入って行くものなのです。
ヘブル書6:19

       (ローズンゲン日々の聖句4/14;火)

 預言者エレミヤは、天の神、主からの民に対するメッセージをそのとおりに伝えたために、捕えられ、殺されそうになったのだそうです。まさに生死にかかわるその争いの中で、自分に代わって神である主が争ってくれるように、命を買い戻してくれるようと願ったのだそうです。

 この世の争いでもそうですが、私たち人間には、天の神、主の御前での裁判において訴える者と争わなければならない時が来るのだそうです。
私たち、一人一人が自分の今までの生きて来た生き方について弁明しなければならないのですね。告訴する者、サタンは私たちを告訴して地獄行きを求刑し、私たちを道連れにしようとするのだそうです。けれども天の神、主は私たちに代わって争ってくれる、弁護してくれる方を用意して下さっているのだそうですね。

 その方は、ご自身で私たちの罪を負い、私たち人間に代わって死刑を受けて下さって地獄の底の底まで降って下さり、よみがえられた方なのだそうです。

 その方の弁護は、私たちの無罪、あるいは減刑を争うのではなく、私たちの有罪、死刑を認めたうえで、その死刑が、ご自身の十字架刑での処刑ですでに完了していること、処刑が終わっていることを主張して下さるのだそうです。

 自分は無罪だと、死刑にあたるようなものではないと自負し、自分で自分の言い開きをしたい者は、自分で争い、言い開きをすることになるのだそうですが、十字架に架かって死なれたイエスに弁護をお願いし、私に代わって争っていただくことも可能なのだそうですね。

 私たち人間には、このような希望が用意されているのだそうですが、この希望は、この世の流れの中を渡っていくうえで、世の流れに流されそうになるときの、あるいは力尽き、望みを失いそうになるときの錨のようであり、また、天の神、主の御前にはばかることなく出て行き、親しく「父よ」とお呼びすることの出来る身分保障でもあるのだそうです。

 日々の生活において、告訴する者、サタンは、「お前はだめだ。消え去れ」とささやいてくることがありますけれど、それが事実であるとしても、私たちは、イエスの弁護によって、あの方の招きに応じて、このままで御前に出、「父よ」とお呼びして親しく語っていただけるのだそうです。
今日も。

 

 

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