恋い慕っていて下さるのだそうです。あの方。私たちを。

あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。
主は全ての民の中からあなたを選んで、宝の民とされた。
申命記14:2 
 
 
父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。
あなたがたが、わたしを愛し、

私が父のもとから出てきたことを信じたからである。
わたしは父のもとから出て、世に来たが、
今、世を去って、父のもとに行く。
ヨハネ16:27~28
 
        (ローズンゲン日々の聖句4/4;土)
 
 
 
 天の神、主がイスラエルを選び、御自身の民とされたのは、
彼らが数が多かったからではないのだそうですね。
むしろ、すべての民のうちで最も数が少なかったのだそうです。
そのような彼らを恋い慕って、御自身の宝の民とされたのだそうです(申命記7:7)。
 
 
 そして、私たちが、イエスを天の父である神のもとから来られた方、御子である神と信じられるのは、父である神が私たちを愛していて下さるからなのだというのですね。父である神の愛に呼応して、イエスを信じられるようになるということのようですね。
だから、私たち、自分の信仰を誇ることはできないのですね。私がイエスを信じられたことも天の父である方の愛によることなのですから。
 
 
 2番目のヨハネ16章の言葉は木曜日の夜、弟子たちとの最後の晩餐の席でイエスが話された言葉ですが、明日、イエスは、いよいよ、天の父から託されたすべての人間の罪を御自身に引き受けて、十字架刑で処刑されようとしている。
そして、その役目を果たして、救いの手続きを完了させ、父のもとへ帰って行くのだと言っておられるのですね。
 そして、イエスは、そのことばのとおりに、その夜、捕えられ、裁判にかけられ、罪は認められないのに無理やり有罪にされて、翌日、金曜日の朝の9時頃、十字架に架けられ、午後の3時頃、「完了した」と宣言されて息を引き取られたのだそうです。
 
 イエスの死体を引き取ったアリマタヤのヨセフやニコデモは、日没には、過越しの祭りの安息日が始まるため、大急ぎで、近くにあった、ヨセフが自分のために掘っておいた墓に納めたのだそうです。
 けれども、イエスは、三日目、日曜日の早朝、復活され、40日に渡って何度も弟子たちに現れて、御自分が生きていることを証明され、弟子たちの見ている前で、オリーブ山から天に帰って行かれたのだそうです。
エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。もう間もなく、あなたがたは聖霊のバブテスマを受けるからです」と言い残して(使徒1:4~5)。
 
 イエスの死後、残った弟子たちは120人ほどだったようですが、エルサレムでひっそりと、イエスの言葉のとおりに待っていたのだそうです。
 それから、10日後、ペンテコステ(5旬節)の日、律法授与の記念日、旧い契約が結ばれたその記念日に、約束の聖である霊と呼ばれる方が弟子たちの内に来られて新しい契約が実現したのだそうです(エレミヤ31:33)。弟子たちは、御父の御思いを心に置いていただいて、聖である霊と呼ばれる方が話させられるままに、他の言葉で話しだしたのだそうですね(使徒2章)。
 
 
 「われわれが一つになっているように、われわれと思いを一つにし、行動を一つにする者が欲しい」との、御父のあつい思いが実現していくことが、この人間の歴史の中に突入して来て、始まっているのだそうです。
今日も。
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