届いているのですね。私たちにも、あの方の憐れみの御業

御憐れみが私に届き、
命を得させてくださいますように。
詩編119:77
 
王は家来たちに言った。
「町の大通りに出て、
見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。」
そこで、家来たちは通りに出て行き、
見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、
婚宴は客でいっぱいになった。
マタイ22:9~10
          (ローズンゲン日々の聖句3/5;木)
 
 マタイ22:9~10は、イエスが語られた、天の御国には誰が入ることができるのかという主題のたとえ話しの一部です。
 王が王子の結婚の披露宴を設けたのだそうです。
それで、前もって多くの人たち、
たぶん、有力者や立派な人たち、
を招待しておいたのですね。
 結婚披露宴の当日になって
招待したおいた客を呼びに使いを遣わしたのですが、
その人たちは来たがらなかった。
それで、もう一度、使いを遣わして言わせたのだそうです。
「さあ、食事の用意ができました。
雄牛も太った家畜もほふって、何もかも整いました。
どうぞ宴会にお出かけください」と。
 ところが、彼らは気にもかけず、仕事に出かけてしまい、
また、ほかの者たちは、王の使いを捕まえて恥をかかせ、
殺してしまったのだそうです。
 そんなわけで、王子の結婚披露宴の用意はできているのに、
招待しておいた人たちはそれにふさわしくなかったので、
町の大通りに出て行って、見かけたものはだれでも、
善人とか悪人に関係なく
婚宴に連れて来ることになったのだそうです。
宴会の席がいっぱいになるまで。
 連れて来られた人たちは、入り口で、王が用意した礼服をもらって、
それを着て宴会の席についていたのですね。
 ところが、ひとりだけ、王が用意した礼服を着ないで、
自分の服のままの人がいた。
王が、どうして礼服を着ないのかと問うと、
彼は黙っていたのだそうです。
あの時、カインが神様に、自信を持って自分の行いの結実をささげ、
それが受け入れてもらえなかったとき、
ひどく怒り、顔を伏せたように(創世記4:5)。
 そこで王は、その人を宴会の席から放り出させたので、
その人は外の暗やみで、泣いて歯ぎしりした、というたとえ話なのです。
 招かれていながら、それを無視して、
婚宴に行こうとしなかった人たち、
そして、招きに応じはしたが、
王の出してくれた礼服を着ようとしなかった人、
どちらにも言えることは、
王の心に自分の心を添わせていくよりも、
自分の思い、自分の判断を優先し、
自分一人で良し悪しを決定していったということでしょうか。
 エデンの園でのこと、
神様と思いを一つにして歩む者であったアダムとエバが、
もっと立派になって、神のひとりのようになろうと思い立ち、
善悪を自分の判断だけで決めて行く者になった(創世記3:22)。
その的外れがそのまま引き継がれて来ているということのようですね。
今の私たちにまで。
 天の神、主は、
その的外れになっている私たち人間をなお、憐れんで下さって、
永遠の初めから共におられた御子である方を、
人間イエスとして人の世に生まれさせ、
この方を十字架刑で処刑することで、
私たち人間の背きの罪、反逆罪を処刑済みとし、
新たに、聖である霊と呼ばれる方を私たちの内に派遣して、
この方の働きで私たちの心にご自身の思いを置いて下さって、
私たち人間が御思いに心を添わせて行動する者にしてくださる。
私たち人間を創造の目的に立ち帰る者、
義を着た者として下さっているのだそうです。
 今まで着ていた服を脱いで、
王の用意した礼服を着て婚宴の席に着いた人たちのように、
私たちも、今までの私の働きという服を
イエスの十字架刑で処刑されたもの、死んだものと考え(ロマ6:11)、
聖である霊と呼ばれる方をお迎えして(着て)(エゼキエル36:27、使徒1:5)、
御父の御思いに心を添わせていく生き方に進みたいものですね(ガラテヤ5:24~25)。
今日も。
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