あの方の道を私たちの心に置いて下さるのだそうですね。

主は恵み深く正しくいまし、
罪人に道を示してくださいます。詩編25:8

 

 

 

信仰の弱い人を受け入れなさい。
その考えを批判してはなりません。ロマ書14:1


            (ローズンゲン日々の聖句2/27;金)

 

 

 


 天の神、主は、恵み深い方。
道をそれた者を断罪し、切り捨てるのではなく、
あるべき在り方に導かれる方。

 


 私たち人間の一人一人にご計画をもっていて下さって、
その行くべき道、足元の小道を示して下さる方なのだそうです。

 


私たちが右に行くにも左に行くにも、
私たちの耳に後ろから、
「これが道だ。これに歩め」という言葉を聞く(イザヤ30:21)
場合もあるのでしょうし、

 

 

私たちの心に、御思いを来させて、
志を立てさせ、願いを起して、
ことを行わせ、実現に至らせて下さる(ピリピ2:13)こともあるのでしょうね。

 

 

 

 信仰の仲間同士の関係にあっても、
信仰にもいろいろな段階があり、
信仰の強い人、知識で割り切っていける人もいれば、
信仰の弱い人(信仰の知識で割り切れず、良心の呵責を覚える人)もいるわけですから、
天の神、主が願っておられる在り方は、
信仰の強い人は、信仰の弱い人を受け入れる在り方のようですね。
批判しないで。

 


 具体的に言うと、
神殿にささげられた肉を食べてもいいのか、
食べてはいけないのかという問題で、
当時の異邦人社会にあっては、
異教の神々の神殿にささげられた肉が取り下げられて、
市場で売られていたそうで、
市場で買ってきた肉が、もし、他の神々にささげられたものであれば、
それを食べると偶像礼拝の罪を犯すことになるので、
罪を犯さないよう、市場で売っている肉は食べない、
食べるべきでないと考える人たち、
その肉を食べると良心の呵責をおぼえる人たちがいたようです。

 


 また、もう一方で、信仰の強い人:偶像に対して知識を持っている人、

他の神々は本来存在しないものであるとの知識を持っていて、
だから、そのような神々は、本来存在しないのだから、
他の神々の神殿にささげられた肉であっても、
普通の肉として食べていいと割り切れる人もいたようです。

 


 それで、主は、こちらが正しいから、このようにしなさいとは おっしゃらないで、
お互いが相手を裁き合ったり、批判し合い、見下したりしないで、
信仰の強い人は、弱い人に配慮して欲しいと思っていらっしゃるいうことのようですね。

 強い人が、自分の自由で、肉を食べ、
信仰の弱い人が、それに巻き込まれて肉を食べて、
良心の呵責を覚え、罪責感で悩むことがないよう、
強い人は弱い人に配慮して欲しいと主は思っていらっしゃるようですね。

 


 キリストが身代わりになって死んで下さったほどの人を、

食べ物のことでつまづかせ、滅ぼさないでほしいのだそうです(ロマ14:15)。

 


 あの方の道、お互いの霊的成長に役立つことを追い求める小道を歩みたいとの願いを

私たちの心に起して下さるのだそうですね。
今日も。


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