知恵と悟り、はかりごとと能力、主を知る知識と畏れ敬う心が来るのだそうです。この方から

エッサイの株から一つの芽が萌えいで、
その上に主の霊がとどまる。
知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、
主を知り、畏れ敬う霊。
イザヤ書11:2

 

イエスは洗礼を受け、すぐ水の中から上がられた。
その時、天が開いて、
イエスは、
神の霊が鳩のように
ご自分の上に降って来るのをご覧になった。
マタイ3:16

      (ローズンゲン日々の聖句2/3;火)

 

キリスト紀元前700年頃のこと、
天の神、主はイザヤを用いて語られたのですね。
「エッサイ(ダビデ王の父)の切り株から一つの芽が出て、その方の上に神の霊がとどまる」と。

その霊は、知恵と識別の霊、
思慮と勇気の霊、
主を知り、主を畏れ敬う霊であるゆえに、
その「霊」と呼ばれるお方を心にお迎えした者は
そのような心の持ち主になる、と。

およそ、700年を経たころのこと、
ユダの国に、バプテスマのヨハネと呼ばれる人物が現れ、
ヨルダン川で悔い改めのバプテスマを施していたとき、
イエスも、ヨハネからバプテスマを受けたのだそうです。

水から上がられると、
天が開いて、神の霊と呼ばれる方が、
鳩が舞い降りて来るように、
イエスに来られて、とどまられたのだそうです。

イエスは、
「わたしは自分から話したのではありません。
私を遣わした父ご自身が、わたしが何を言い、
何を話すべきかをお命じになりました。
わたしが話していることばは、
父がわたしに言われたとおりを、
そのままに話しているのです。」
と言っておられます(ヨハネ12:49~50)。

神が御霊と呼ばれる方を無限に与えられたので、
その働きを受け、神のことばを話されるのだそうです(ヨハネ3:34)

 

イエスの十字架刑での処刑により、
神の御霊と呼ばれる方が来て下さると、
私たちも、
自分の理性の判断でカチンカチンに固まっている思いが
取り除かれて(死んでしまったものと手続きされて)、
柔軟なやわらかい心になり、
天の神、主の御思いが心に来て、
御思いに従って歩むようにしていただけるのだそうです。
今日も。

 

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