用いていただけるのですね。ギデオンのように、私たちも。

主よ、もし御目にかないますなら、

 あなたが私にお告げになるのだというしるしを

  見せてください。士師記6:17

 

イエスはトマスに言われた。

 「わたしを見たから信じたのか。

   見ないで信じる人は、幸いである。」ヨハネ20:29

 

      (ローズンゲン日々の聖句11/26;水)

 

 

 告げられた言葉があなた(天の神、主)から出たものかどうか、が問題のようですね。

 

強力なミデヤン人の侵入によって国中が荒らされているとき、「あなたのその力で行き、イスラエルをミデヤン人から救え。わたしがあなたを遣わすのではないか。」と言われても、自分の側にはなんの力もなく、ただ、恐れしかなかったギデオンの言葉ですが、語っているのが本当に天の神、主であるのかどうかがギデオンの最も大きな関心事だったのですね。

 

 その、天の神、主、御子と呼ばれる方、イエスがおっしゃるのですね。十字架に打ち付けられ、体重がかかって、手に大きく開いた釘の穴に指を差し入れてみてでも、また、確かに死んでいることを確認するためにローマ兵が突き刺した脇腹の槍の傷後に触ってみてでも、3日前、みんなの見ている前で確かに十字架に架けられて死に、墓に葬られたわたし、イエスが復活し、今、あなたの目の前に立っているこのわたしだと知りなさいと。

 

 あの時から2000年が経過した今、私たち、その時のトマスのように目の前に復活されたイエスが立っているわけではありませんが、弟子たちの証言を信頼し、イエスが復活したことを信じる人は幸いだとおっしゃられるのですね。

 

 復活されたイエスは、40日にわたって何度も弟子たちに現れ、語られ、オリーブ山から、弟子たちの見ている前で天に帰って行かれたのだそうです。

 

 そして、天の、父と呼ばれる方の右の座に就かれたイエスが、もう一人の助け主、聖である霊と呼ばれる方を私たちのうちに派遣して、この方がいつまでも私たちと一緒にいて下さるようにして下さっているのだそうです。

 

 この方によって、私たちは「子」の身分を与えていただき、天の神、主と呼ばれる方を、イエスと同じ立場で「父」と呼べるようにして下さり、イエスと同じように父の御思いが心に来て、父と一つ思いを持つ者にしていただき、父がしようと思われることをする者にしていただけるのだそうです。

 

 ギデオンが用いられたように、私たちにも、御父からどんな思いが来て、どんなことをさせていただけるのでしょう。今日。

 

 

 

 

 

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