折れかけた葦を折ってしまうことも、消えかかっているランプの灯を消してしまうこともなさらない。あの方

彼は

傷ついた葦を

折ることなく、

 

暗くなっていく灯心を

消すこともない。

イザヤ書42:3

 (今週の聖句)

 

 

 

主は

私の光、

 

私の救い、

 

私は

誰を恐れよう。

詩篇27:1

 

 

 

イエスの言葉:

心を

騒がせるな。

 

神を

信じなさい。

 

そして、

私を

信じなさい。

ヨハネ14:1

...

    (ローズンゲン日々の聖句9/7;日)

 

 

 

 恐れに包まれ、

心騒ぐ中にあって

あの方を

呼び求め、

 

あの方に

叫ぶとき、

 

あの方の御手の中で、

いつしか

その場を

通り過ぎさせていただけるのですね。
  

 

あの方は、

不安に駆られ、

恐れまどい、

心騒ぐ

私たちを、

 

信仰のないダメなやつ、

などという

冷たい目で

批判的に見たり、

 

顔をしかめたりする方では

ないのだそうですから。


 

 

 捕縛され、

裁判にかけられているイエスを、

繰り返し三度も、

あんな人は知らないと

否定したペテロを振り返り見られた

イエスの眼差しは、

どんなにか

温かく、優しかったことでしょう。

 

それで、

ペテロは、

大地に身を投げ出して

思いっきり

泣くことが出来たのでしょうね。

 

 

 だから、

恐れることなく

(恐れながらでいいのでしょうが)、

 

光りの中に、

あの方の御前に、

ありのままの自分を投げ出し、

広げて、

見ていただいて、

知っていただいて、

 

私の全部を知っていただいている

大安心の中で

くつろぐのですね。

 

 

二心をやめて、

一つ思いになり切って、

私はこういう者ですと

認めきって、

 

はばかることなく、

あの方の御前に

出て行っていいのだそうです。

 

 

 私が受けるはずの罰は、

叱られるはずの叱責、批判は、

 

すでに、全部、

イエスが受けていて下さり、

 

今は、

聖である霊と呼ばれる方が

私に

来て下さって、

 

その方によって

御父の御思いを我が思いとして

進むのだそうですから。

私たち。

 

今日も。

 

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