やもめ、みなしご、寄留者、貧しい者らを思いやることでも、思いを一つにして欲しいのだそうです。あの方

やもめ、みなしご、寄留者、貧しい者らを思いやることでも、思いを一つにして欲しいのだそうです。あの方 - 菅佐知男のブログ - Yahoo!ブログ

やもめ、

みなしご、

寄留者、

貧しい者らを

虐げてはならない。

ゼカリヤ書7:10

 人が

なすべき善を

知りながら、

それを

行わないのは、

その人にとって

罪です。

ヤコブ書4:17

(ローズンゲン日々の聖句7/29;火)

正しいさばきを行い、

互いに誠実をつくし、

憐み合え、

互いに心の中で悪をたくらむなと

あの方は

おっしゃっておられます。

けれども、

私たち人間は、

自分が一番になろうとし、

良いものを自分一人で独占しようとし、

人を

(他の会社を)

引きずりおろすことに

血道をあげているのですね。

イスラエル1500年の歴史において、

あの方は、

人が

なすべき善を知れば、

それを

行うことができるか、

実験をされたわけですけれど、

人は

あの方の言葉を聞こうともせず、

肩を怒らし、

耳をふさいで聞き入れなかった

(ゼカリヤ7:11)

のが現実であったようです。

また、

本気でこれを守ろうとした人も、

「私には善をしたいという願いがいつもあるのに、

それを実行することがない。

私は、

自分でしたいと思う善を

行わないで、

かえって、

したくない悪を

行っています。

私は

ほんとうに

みじめな人間です。

だれが

この死のからだから、

私を

救い出してくれるのでしょうか。」

(ロマ7:19~20、24)と

言うほかなかったのだそうです。

これが、

あの方と思いを一つにすることを

厭い、

自分が

善悪を判断する者となった

(創世記3:22)

人間の実態と

いうことなのでしょうね。

このことがはっきり現れた時点で、

あの方は

もう一つの道を

約束され

(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28)、

それを、

この人間の歴史のただ中で

具体的に

実現されたのですね。

(ヨハネ17:21~23、19:30、使徒2:1~4)

新しい霊とか、

聖である霊と呼ばれている方を

お迎えし、

心に

あの方の御思いが来るように

していただいている者は、

「やもめ、みなしご、寄留者、貧しい者ら」を

思いやることにおいても、

あの方と

思いが一つになるのだそうです。

今日も。

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