あの方が思ってくだされば、その思いのとおりになるのだそうですね

あなたがたに耳を傾ける者は、

わたしに耳を傾け、

 

あなたがたを拒む者は、

わたしを拒むのである。

ルカ10:16

(今週の聖句)

 

 

 

主よ、

あなたが

いやしてくださるなら、

私は

いやされます。

 

 

あなたが

救ってくださるなら、

私は

救われます。

エレミヤ書17:14

 

 

 

 バルテマイという

盲人の物乞いは、

ナザレのイエスだと聞くと、

叫んで、

「ダビデの子イエスよ、

私を憐れんでください」と

言い始めた。

 

イエスは

立ち止まって、

「あの男を呼んで来なさい」と

言われた。

マルコ10:47、49
   

 

 (ローズンゲン日々の聖句6/22;日)

 

 

 

「わたしはある」という名の方が

癒そうと思われれば

癒されるのですね。


 

このエリコ街道で物乞いをしていた

盲人のバルテマイは、

イエスのうわさを聞いていて、

 

この方こそ

「わたしはある」という名の方だと

確信していたのでしょうね。

 

それで、

そのイエスが

今、

目の前を通っていると聞いて、

 

まわりの人からたしなめられるのを振り切って、

このように

大声で叫んだのでしょうね。


 

そして、

イエスから

「わたしに何をして欲しいのか」と

尋ねられると、

 

躊躇せす

「先生、見えるようになることです」と

答えたのですね。


 

この方が

「見えるようになれ」と思ってくださりさえすれば、

 

そのお心一つで、

私の見えなかった目が

見えるようになると

確信していたのですね。

 

「そのとき、

目の見えない者の目は開き、

耳の聞こえない者の耳はあく。

そのとき

足のなえた者は鹿のように飛び跳ね、

口のきけない者の舌は喜び歌う。」

との

イザヤ書35:5~6が

心に浮かんでいたのかもしれませんね。


 

イエスから

「さあ、行きなさい。

あなたの信仰があなたを救ったのです」と

言っていただき、

 

見えるようになったこの人は、

そのまま、

イエスについて行く人に

なったのだそうです。
 

 

私たちも、

イエスによる救いをいただいて、

イエスについていく者に、

 

聖である霊と呼ばれる方によって私たちの心の内に書き付けられる

この方の御思いに

ついて行く者になりたいですね。

 

今日も。

 

イメージ 1


 


 

[にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ]

 

 <a href="http://www.blogmura.com/point/00697809.html"><img src="http://blogparts.blogmura.com/parts_image/user/pv00697809.gif" alt="PVアクセスランキング にほんブログ村" /></a>

 

[269RANKのランキングサイト]

 

 

"哲学・思想 ブログランキングへ"