願いも嘆きも、全部、御前に差し出し、見ていただけるのだそうです。あの方に

新しい歌を

主に向かって

歌え。

 

主は

驚くべき御業を

成し遂げられた。

詩編98:1

(今週の聖句)
  

 

 

私の主よ、

私の願いは

すべて

御前にあり、

 

嘆きも

あなたに

隠されてはいません。

詩編38:10
 

 

 

あなたがたの中で

苦しんでいる人は、

祈りなさい。

 

 

喜んでいる人は、

賛美の歌を

うたいなさい。

ヤコブ書5:13
 

 

 (ローズンゲン日々の聖句5/18;日)
 

 

 

私たち、

心の細かい動きまでも、

すべて、

あの方の御前に

広げていいのだそうです。

 

願いも、嘆きも、怒りも、不安も、

そして喜びも。


 

 

私たち、

とかく、

先生の前や批判する人の前では

きれいな、立派な自分を見せないといけませんが、

 

医者には、

具合の悪いところを

ありのままに

見てもらいます。

 

それなのに

信仰というと、

 

つい、

火事を

自分で

消し終えてから

消防署に連絡するようなあり方をしてしまいます。


 

あの方は、

私たちと

心を一つにしたいと

願っておられるのだそうです。

 

 

いい人間の私、

信仰深い私とでは

なく、

 

今のありのままの私、

現在、只今の

本当の私と。


 

それで、

あの方は、

私のそむきの罪を全部、

御子イエスの上に置いて、

 

イエスを私の身代わりに処刑し、

私はこのままで処刑済みの者と

見なし、

 

私の内から何が出て来ても、

処刑済み、処理済の大判を押して下さって、

 

私たちが

安心してあの方の前に出て行けるように

していて下さるるのだそうです。
 

 

自分でも認めたくないような自分が出て来るたびに、

こんなところまで身代わりになっていて下さる

イエスの贖いの御業、

 

あの方の御愛の深さを

体験することになるのだそうですから。


 

だから

どんな自分が出て来ても、

イエスの御業のゆえに、

安心して、

あの方の前で、

その私に成り切っていることが

できるのですね。


 

その私に、

あの方は、

聖である霊と呼ばれる方を派遣して、

私の心を一新して下さるのだそうですから。

 

あの方の御思いである、

愛、喜び、平安、寛容、

親切、善意、誠実、柔和、自制などを

私の心に書き付けて下さるのだそうですから。
 

 

願いも嘆きも、

気持ちの小さな動きも、

全部、

あの方の前に差し出し、

見ていただき、知っていただいて、

 

「分かったよ。今、お前はそういう気持ちなんだね」って

心を一つにしていただき、

 

そして、

喜びが来たら、

新しい歌で、

詩と賛美と霊の歌で

賛美をささげるのですね。

あの方に。

 

今日も。

 

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