「聖である霊」と呼ばれる方によって、生きていたのでしょうね。ペトロは

良くても悪くても、
我々は
あなたを遣わして語られる
我々の神である
主の御声に
聞き従います。
エレミヤ書42:6
 
 
 
ペトロへのイエスの言葉:
あなたは、
若いときは、
自分で帯を締めて、
行きたいところへ
行っていた。
 
しかし、
年を取ると、
両手を延ばして、
他の人に帯を締められ、
行きたくないところへ
連れて行かれる。
ヨハネ21:18
 
 
 (ローズンゲン日々の聖句4/24;木)
...
 
 
自分の理性、
自分の判断を
最善とし、
 
これを実現しようとする者なのですね。
「善悪を知る者」となった
私たちは。
 
「良くても悪くても、
聞き従います」と言った人々も、
自分たちの思っていることと違う、
「この地に留まれ」との言葉が来たとき、
手のひらを返したように、
その言葉を退けて、
自分の思っていた通りに
エジプトへ下って行ったのだそうです。
 
自分の
「生まれた時からの霊」から来る思いに
従って行くなら、
そうなのですが、
 
自分の「生まれた時からの霊」は、
イエスの十字架刑で、
イエスと一緒に
処刑されたもの、
死んでしまったものと
認めて、
 
新しく
「聖である霊」と呼ばれる方を
お迎えし、
 
この方が
心に置いて下さる
あの方の御思いを
我が思いとして、
 
この思いに従って生きるようになっていた
ペトロは、
 
イエスが仰ったとおりの死に方、
「年をとったとき、
両手を延ばし、
他の人に帯を締められ、
行きたくないところへ
連れて行かれる」との
言葉のとおりに、
 
ローマで、
十字架刑に架けられて
処刑されるという死に方を
死んだのだそうです。
 
 
「良くても、悪くても、
御声に聞き従う」者
となっていたのですね。
ペトロは。
 

私たちも、
「聖である霊」と呼ばれる方が
置いて下さる、
あの方の御思いを
我が思いとして、
ついて行きたいものですね。
 
 
今日も。
 
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