あの方の行いに期待するのですね。自分の行いは義と認められるためには充分ではないと計算できた者は

主の言葉:
 
わたしが
アブラハムを選んだのは、
 
彼が
息子たちとその子孫に、
主の道を守り、
 
主に従って
正義を行うよう
命じるためである。
創世記18:19
 
 
 
アブラハムの信仰が
義と認められた、
のです。
ロマ書4:9
  
 
(ローズンゲン日々の聖句3/31;月)
 
 
自分の力で、
自分の義を積み上げていく道と、
 
あの方を信頼して
約束の言葉の実現を
待ち望んでいく道が
あるのだそうですね。
 
アブラハムの子孫の前に
開かれている道、
主の道を守り、
主に従って正義を行う道に。
 
 
神の律法に示された
主の道、
正義を
 
自分の力で行い、
神の基準をクリアすることができるか、
坐して、
よく計算して
(ルカ15:28~)、
 
完成出来ないとの計算に達した者は、
なんの働きもない者が、
不敬虔な者を義と認めて下さる方を信じるなら、
 
その信仰(信頼)を
義と見なして下さる方がいらっしゃるとの
約束の言葉を
喜ぶ者になるのでしょうね
(ロマ4:5)。
 
けれども、
その道は、
 
私たちの側には、
義と認められるまでの、
なんの行いも
ありませんけれど、
 
 
あの方の側では、
独り子であられ方を
一人の人として、
人間の世に送り込み、
 
人類のすべてのそむきを
この方の上に置き、
 
私たちを罰する代わりに、
この方を
反逆者として処刑するという、
 
とてつもない大きな犠牲の行いが
あってのことなのだそうです。
 
イエスの命がささげられた今は、
 
私たちも、
 
あの方は、
約束されたことを成就する力があることを信じて
(ロマ4:21)、
 
「聖である霊」と呼ばれる方が来て下さり、
私たちの心に
あの方の御思いを思わせ、
 
あの方が
私たちを通してしようと思っていらっしゃることを
私たちが
するようにして下さるとの
約束の言葉が
私の身に実現することを
期待していきたいものですね。
 
今日も。
 
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