隠して、抱え込まないで、言い表し、脱ぎ捨てていくのだそうです。あの方の前に

私は
黙し続けて、
絶え間ない呻きに
骨まで朽ち果てました。
 
御手は
昼も夜も
私の上に重く、
 
私は
罪を
あなたに示し、
咎を
隠しませんでした。
詩篇32:3,4、5
 
 
 
以前のような生き方をして
情欲に惑わされ、
滅びに向かっている
古い人を
脱ぎ捨て、
 
心の底から
新たに
されなさい。
エフェソ書4:22〜23
 
 
 (ローズンゲン日々の聖句2/24;月)
 
 
自分の罪を押し隠し、
黙しているときは、
骨まで朽ち果てるような
苦しさの中にいることになるようですね。
 
 
思いっきり
一歩を踏み出して、
口を開き、
 
あの方に
罪、咎を申し上げ、
御前に広げて、
「私はこういう者です」と
見ていただくとき、
 
その罪、咎の罰は、
すでに
御子である方が受け切っていて下さることが
分かるのだそうです。
 
 
もう、
私が受ける、
私の罰は
ひとかけらも残っていないことが。
 
この私は、
御子である方の十字架刑での処刑で、
「死刑にされた者」との手続きが
全部終わっていて、
 
私は
死亡した者とされていることが。

 
今も、
日々、
「生まれた時からの私」という「霊」から来る思いが
心に満ちますけれど、
 
それは、
もう
死んだものと認め、
計算していくのだそうです。
 
そして、
あの方の前に
それを言い表し、
投げ捨てていくのだそうですね。
 
さらに、
御子である方が、
御父から受けて
私たちのところに派遣して下さる、
「聖である霊」と呼ばれる方を
お迎えするなら、
 
この方によって、
御父の御思いと同じ思いが
私の心にも来るようになるのだそうです。
 
心を新しくするには、
外側から規制していくやり方もありますが、
心の思いの出どころである
「霊」を取り替えるのが
最善の方法なのだそうですね。
 
「聖である霊」と呼ばれる方によって、
どんな「思い」が
私の心に起こるのか、
来るのか、
心を向けていきたいものですね。
 
今日も。
 
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