心の思いの全部を差し出していけば、御心に適ったものを選別して下さるのだそうですね。あの方が

私たちは、
あなたの
深い憐れみのゆえに、
 
伏して
嘆願の祈りを
ささげます。
ダニエル書9:18
(今週の聖句)
 
 
 
主の御名を呼ぶ者は
皆、
救われる。
ヨエル書3:5
(新改訳2:32)
 
 
 
イエスの言葉:
はっきり言っておく。
あなたがたが
わたしの名によって
何かを
父に願うならば、
父は
お与えになる。
ヨハネ16:23
  
 
(ローズンゲン日々の聖句2/16;日)
 
 
御子である方の
お名前を呼び求める者は
救われるのだそうです。
 
 
そのお方が、
ご自分の命をささげて、
ご自分のからだに、
私たちの受けるはずだった罰を
残りなく受け取って下さったから
なのだそうです。
 
あの方が
私たち人間を憐れみ、
惜しんで下さって
 
プレゼントして下さった救いだそうですから、
 
受け取りさえすれば、
誰にでも
与えていただけるものなのだそうです。
「生れた時からの霊」という
私自身では
あの方と心を一つにすることが出来ず、
 
ただうなじを強くして
逆らうばかりであることを
認めて、
 
御子である方の十字架刑での処刑を
私の処刑と
見なして、
 
処刑済みの者とされていることを
受け取り、
 
新しく派遣されて来て下さる
「聖である霊」と
呼ばれる方をお迎えして、
 
 
この方が
私たちの心に思わせて下さる
「父である方」の御思いを求めていくとき、
 
「子は、
父がしておられることを見て行う以外には
自分からは
何事も行うことができません。
 
父がなさることは
何でも、
子も
同様に行うのです。」
(ヨハネ5:19)
と仰られる
イエスと同じ在り方の方向に立つことになり、
イエスの名によって
(イエスの代理人として)
願う位置に立っていることになるのでしょうか。
 
いずれにしても、
私たち、
自分の働きの報酬、
当然受ける権利として
何かを願うことができる者ではなく、
 
ひとえに、
あの方の
深い憐れみを手掛かりにして、
 
伏して
嘆願の祈りをささげる者なのですね。
 
イエスのゆえに
大胆に。
 
今日も。
 
 
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