憐れみと祈りの霊、真理の霊と呼ばれる方に導いていただけるのだそうですね。私たち

わたしは
ダビデの家とエルサレムの住民に、
憐れみと祈りの霊を
注ぐ。
ゼカリヤ書12:10
 
 
 
イエスの言葉:
その方、
すなわち、
真理の霊が来ると、
 
あなたがたを導いて
真理を
ことごとく
悟らせる。
ヨハネ16:13
 
 
 (ローズンゲン日々の聖句2/14;金)
 
 
エルサレムが包囲されるその時、
御子である方は、
エルサレムに攻めて来るすべての国々を
滅ぼし、
 
そして、
ダビデの家とエルサレムの住民に、
憐れみと祈り(恵みと哀願)の霊
と呼ばれる方を
派遣されるのだそうですね。
 
その霊である方によって
ユダヤの人たちは、
御座におられる方が、
自分たちが、かつて突き刺した者であると
悟り、
激しく泣くのだそうです。
 
真理、
それは、
あの十字架刑で処刑され、
ローマ兵の一人によってわき腹を槍で突き刺され
(おそらく心臓に達するまで)、
死んでいることが確認された
(ヨハネ19:34)
イエスという男が、
 
実は、
永遠の昔から
「父である神」と共におられ、
人間をはじめ、この自然界、宇宙の
創造主である
「御子である神」、「ことば」と呼ばれる神である
(ヨハネ1:1~3)、
ということ、なのでしょうか。...

私たちが御前に出る、
その御座に着いておられる方は、
「ほふられたとみられる小羊」
(黙示録5:6)
なのだそうですから。
 
そして、
このゼカリヤ書の預言は、
まだこれから先の事と思われますが、
 
イエスのこの言葉は、
イエスがこれを語られたその50日後に
実現し、
現在に続いているのだそうです。
 
イエスが、
「わたし自身からは何事もせず、
ただ
父がわたしに教えられたとおりに、
これらのことを話している」
(ヨハネ8:28)
のだと言っておられますが、
 
この「真理の霊」と呼ばれる方も、
「自分から語るのではなく、
御子が父から受けたものを、
そのまま、聞くままを話す」方
なのだそうですね。
 
それゆえに、
この方が、
私たちの心の中に起こされる
「思い」も、
 
御子である方が
父である方から受けた、
そのままのもの
なのでしょうね。
 
この「思い」に導かれて行くとき、
イエスが
「わたしと父とは一つです」
(ヨハネ10:30)
と言われた、
その一つの中に
私たちも
加えられていくということでしょうか。
 
今日も。
 
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