今までの自分とはまったくちがう、新しい私が始まるのだそうですね

命の泉は
あなたにあり、
 
あなたの光に、
私たちは
光を見る
詩篇36:10
 
 
 
イエスは大声で言われた
渇いている人は
だれでも、
わたしのところに来て
飲みなさい。」
ヨハネ7:37
  
 
(ローズンゲン日々の聖句2/11;火)
 
 
私たちを生きた者とする命の水、
それが
イエスのところで飲めるのだそうですね。
飲みたい人はだれでも。
あなたには飲ませないよということは
ないのだそうです。
 
だから、
自分は渇いている、
私には命の水が必要なのだと
分かることが、
この水を飲みたいと思うようになる
条件なのでしょうか。
 
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」
マタイ5:3
「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。
わたしは
正しい人を招くためではなく、
罪人(つみびと)を招いて、
悔い改めさせる(神に立ち返らせる)ために
来たのです。」
ルカ5:31~32
 
などのイエスの言葉は、
同じ意味合いを持っているのでしょうか。
 
そして、
イエスが
「来て、飲みなさい」と言われる
水とは、
 
「聖である霊」と呼ばれるお方のことのようですね
(ヨハネ7:39)。
 
「生まれたときからの霊」という
私自身では、
あの方のお心にかなう生き方は出来ないことが分かって、
 
あの方が約束して下さっている
新しい霊、
「聖である霊」と呼ばれるお方が
私には必要なのだと分かって、
 
そのお方を
お迎えしたいとの
思いが起こって来るということなのでしょうね。
 
イエスは、
言っておられるのでしょうか。
 
「渇いている人は
だれでも、
わたしのところに来て
飲みなさい。」
 
そして、
新しい生き方、
あの方と関わりを持ちながら生きる生き方を
始めて欲しいと。
 
今日も。
 
〔2月9日(日)、今週の聖句の個所は、イザヤ60:2 でした。書き忘れてごめんなさい。〕
 
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